2014年4月5日土曜日

綺麗で性格もよいのに、まったく男子学生にモテなかった女子学生の話

大学入学後に、クラスで呑(の)み会を開いた。

たいそう美しく、聡明(そうめい)そうな女子学生がいた。きょうこちゃんだった。指定校推薦で入学したという。

ある男子学生が、指定校推薦で入学したっていうのは、どのくらいの成績だったのかを訊(たず)ねた。

高校の3年間の成績で、「4」がひとつだけで、あとはすべて「5」であったという。

名門高等学校の出身で、それほどの成績ならば、東京大学でも合格できるのはないかというくらいだった。

とはいえ、そんな名門高等学校で、そんな成績だったということを知った男子学生は、畏(おそ)れをなした。

その結果、男子学生は、私を除いて、きょうこちゃんに近づかなくなった。どうも、一般の男子学生は、自分よりも遥(はる)かに能力の高い女子学生が好きではないらしい。

その後、同じクラスのようこちゃんと話をしたときに、うちのクラスの男子学生にモテるのは、それほど勉強が得意と感じれなく、ちょっと弱々しい感じがして、それでも、それなりに可愛いあいこちゃんや、よしこちゃんがモテるだろうと言った。

また、ようこちゃん自身は、男子学生を意識しないでだれにでも話しかけるから、(女に縁(えん)のない)中高一貫の男子校出身の男子学生に言い寄られそうだと指摘した。

すると、1年生の6月の時点で既(すで)に2人から告白されたと言っていた。おもわず笑ってしまった。

その上で、「きょうこちゃんはうちのクラスの女子学生が、あんなふうになりたいと憧(あこが)れる存在なんだろう、性格がよくて、スタイルもよくて、聡明(そうめい)で、顔が小さくて、綺麗だから。でも完璧(かんぺき)すぎて男子学生にはモテないだろうな」と言った。

すると、ようこちゃんは驚いて、「そうなのよ、あんなふうになりたいと(うちのクラスの女子学生は)みんな、憧(あこが)れているのよ」と言った。

ようこちゃんは私がそういうことを言ったことをきょうこちゃんに言った。きょうこちゃんはそのことがうれしかったらしい。

私が授業で、講師の誤訳を指摘したり、鋭(するど)い質問をしたりすると、きょうこちゃんは「掃除機くんって、すごーい」と授業中にあからさまに言った。そういうことが何度もあると、事情を知らない学生は、きょうこちゃんは掃除機くんが大好きなんだと勘違(かんちが)いした。

また、学生食堂でも、よく、私の隣に来ないかと呼ばれた。

女性というものは、自分のことを、性格もスタイルもよくて、知的で、綺麗だと言われると嬉(うれ)しいものであるらしい。しかも、そんなふうに称賛(しょうさん)しても、別段(べつだん)、言い寄ってくることがなければ、面倒な存在ではない。

すると、「消極的に大好きな人」になるようだ。

あるとき、早稲田大学の文学部のスロープ(坂道)で、母方の祖母に写真を送ろうと思って、カメラを持っていって、知り合いに写真を撮(と)ってもらった。祖母に「ぼくは大学で元気にやっています」という報告をするためだった。

そうしたところ、授業を受けに来た学生たちがやって来た。

同じクラスの女子学生たちと、ふたりで並んだ写真をたくさん撮った。

その中で、きょうこちゃんと撮った写真は、うちの女子中学生たちや女子高校生たちからすると、「超ラブラブ」だと思い、てっきり、つきあっていたのだと思ったという。

その後、きょうこちゃんは、ファッション誌の読者モデルとして、登場した。早稲田大学や立教大学は出版社に近いので、読者モデルにスカウトされやすい。

普通の読者モデルは、1ページに4人が掲載(けいさい)されていたのだが、きょうこちゃんは1ページをまるまる独占していた。そのくらいに綺麗(きれい)だった。

それで、面白(おもしろ)いかなと思って、きょうこちゃんが掲載されているそのファッション誌を買って、当該(とうがい)のページに、「超ラブラブ」の写真を挟(はさ)んで、7歳年上の叔母(おば)に送り、「ぼくにもこんな綺麗な彼女ができました」と嘘(うそ)の手紙を送ってみた。

ちなみに、昔は、8人くらいの兄弟姉妹なんてものは普通で、長女の息子と、最年少の叔母とはそれほど年が離れていないということが多い。たとえば、『サザエさん』のタラちゃんからすれば、ワカメちゃんは叔母になるのだが、それほど年齢は離れていない。昔は、そういう状況がよくあったのである。

それはともかく、7歳年上の叔母に、ファッション誌と「超ラブラブ」写真を送ったところ、一族で大騒ぎになっていた。

掃除機はそこそこモテていたけれども、ぶっさいくなのにしかモテなかったとか、こんな美人とそういう関係になるわけがないとかいう意見が出たという。

夏休みに帰省(きせい)したとき、うちの母ちゃんは、きょうこちゃんのことを「この子は、ほんまに別嬪(べっぴん)さんやなあ」と言っていた。

私は早稲田大学時代には、英語では、ひとつを除いてすべてA評定だった。

大学の評定では「優」「良」「可」があるが、早稲田大学の文学部と理工学部では「優」にはA評定の「優」とB評定の「優」があった。私の場合、語学とレポートでは基本的には「A評定」の「優」ばかりだった。

しかし、英語でひとつだけ「B評定」の「優」がひとつあった。

全体で「優」が8割を超え、「A評定」の「優」が65%を超え、GPA (Grade Point Average)が3.76という驚異的(きょういてき)な成績のだったのだから、決して馬鹿ではないのだが、英語で「B評定」の「優」がひとつあったのだ。

その「B評定」だった英語の科目で、「A評定」だったのは、うちのクラスではきょうこちゃんだけだった。こういうのは、どんなに努力しても素質が違うので、どうにもならないのだろう。

まあ、私は他人(ひと)の5倍から10倍の努力をしていただけの努力家にすぎないからなあ。

よく考えると、きょうこちゃんって、楽に単位が取れる科目のときには比較的、手を抜いていたらしい。単位認定が厳(きび)しいとされる科目のときには本気を出して、優秀な成績を修(おさ)めていたようだ。

才能が違うというのは、こういうことだろう。

でもね、才能が違うということを本当に実感するには、努力した人間でなければわからないから、努力したうえで彼我(ひが=相手と自分)の才能の違いを理解するのは、人生の上で大事なことなんじゃないかな。

自分がただの努力家だったということがわかっても、別段、なんとも思っていない。

人生とは、まあ、そういうものだろう。

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和歌山県, Japan
早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。

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