2014年4月27日日曜日

帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男(その4)

坂井雅夫少尉(階級は終戦時)は、昭和11年(1936年)11月27日に第1期技術生徒のひとりとして卒業した。

当時、成績のよい者は海外に、それほどでもないものは内地勤務となった。

坂井雅夫は、第1志望の飛行第16連隊付となった。飛行第16連隊は満洲牡丹江(まんしゅうぼたんこう)*1に昭和10年(1935年)12月から拠点を構えていた。
*1:牡丹江=現在の黒龍江省牡丹江市(こくりゅうこうしょうぼたんこうし)である。

海外勤務で、第1志望どおりの任地(にんち)ということから、在籍中の成績がよかったであろうことが窺(うかが)われる。

飛行第16連隊を第1志望にしたのは、連隊長が、のちに陸軍航空本部長となる寺本熊市大佐であったからだろう。寺本熊市は、和歌山県伊都郡隅田町(いとぐんすだちょう)の出身で、坂井雅夫少尉は隣の橋本町(はしもとちょう)出身だからだ。

満洲に出発する前に、橋本町に帰省(きせい)した。当時の郷土新聞(きょうどしんぶん)につぎのような記事が掲載された。

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郷党(きょうとう)に嘱望(しょくぼう)されて空軍最前線へ坂井雅夫君出征(しゅっせい)

既報(きほう)陸軍航空技術学校第一期技術生は本県では二名だが、その一人橋本町出身の坂井雅夫君は優秀な成績で卒業し、伍長勤務上等兵(ごちょうきんむじょうとうへい)の肩章(けんしょう)も新しくこのほど実家に帰省(きせい)したが、同君は伊都中学四年在学中の昭和九年二月採用され……殊(こと)に橋本では航空界に送る最初の鳥人として……満ソ国境◯◯◯の寺本部隊長所属として非常時日本国防空軍の最前線に出征するもので……歓呼(かんこ)を浴びて盛んなものであった……

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満ソ国境◯◯◯」の◯◯◯は、牡丹江のことだろうが、軍事機密ということで、伏せ字(ふせじ)になっているらしい。

日教組(日本教職員組合)による反日自虐史観教育を受けた者からすると、初めて上記の記事を目にしたときには、信じられなかった。

満洲時代の話にはいろいろとおもしろいものがある。

まず、坂井雅夫は飛行第16連隊軽爆班第3中隊に配属された。93式双軽爆撃機の機付(きつき)*2となり、同時に、機上射手も務めた。訓練や戦闘では機上射手として機銃掃射(きじゅうそうしゃ)などを行ない、飛行場に戻れば、即座に整備をしなければならなかった。
*2:機付=特定の機体の整備担当を示す。

機上射手としての初陣(ういじん)は昭和13年(1938年)の夏だった。松花江(しょうかこう)*3の畔(ほとり)にある佳木斯(ジャムス)*4から東へ200キロメートルのところに位置する、富錦(ふきん)*4の南方の湿地帯に散在する小島を拠点とするゲリラ討伐に出動した。
*3:松花江=アムール川(黒龍江)最大の支流で、長白山系の最高峰、長白山(ちょうはくさん)(朝鮮語名:白頭山(はくとうさん))山頂火口のカルデラ湖(天池)から発する。
*4:佳木斯(ジャムス)=現在の支那大陸にある社会主義国家の最東部に位置する都市。
*5:富錦=黒龍江省東北部、松花江下流南岸の三江平原の中腹に位置する。佳木斯(ジャムス)より更に東に位置する。現在は、松花江下流沿岸の内陸河港と農地開墾の基地である。

満洲のような極寒地(ごっかんち)での整備はたいへんだったらしい。

気化器ドレンのプラグを軽く締(し)めたら、首部がポロリと折れたりして、内地(ないち)では考えられないことがよく起きたという。

酷寒地なので、炭火おこし当番は起床2時間前に起き、5俵(ごひょう)または6俵(ろっぴょう)の木炭に火を熾(おこ)し、事前に暖かくしておかなければならないが、坂井雅夫は2回、一酸化炭素中毒になった。

牡丹江のカッフェーで痛飲して、徒歩帰営の時刻が過ぎてしまい、中隊長に叱責(しっせき)され、翌日の射撃成績が散々で、昨夜の泥酔が原因だと怒った中隊長によって、零下30度の中、3回連続して、風防のない機上射撃をさせられ、顔が凍傷(とうしょう)になった。応急処置により、大事にはいたらなかったが、両眼のまぶたは黒枠のかさぶたになり、それがむけて赤べたになり、その繰り返しが1か月半、続いた。格好(かっこう)悪くて堪(たま)らなかったという。

兵器紛失もやっている。射撃訓練中に勢いよく銃を左に旋回(せんかい)させた瞬間に、右の扇形弾庫が落ちてしまった。着陸後、2台のトラックに分乗して、捜索(そうさく)を行なった。飛行場から5キロメートルほどの落下地点とおぼしきあたりは、梨花(りか)が咲き乱れており、紛失した坂井雅夫は必死で扇形弾庫を捜していたが、本人以外は、よいお花見だと大はしゃぎとなり、梨花の大枝を持ち帰って、中隊玄関の両脇に飾りつけた。支那事変の最中(さなか)にこんなことをやっていたんだぜ。

密閉風防(みっぺいふうぼう)はなく、後方銃座勤務(こうほうじゅうざきんむ)は寒さとの闘いであった。電熱服(でんねつふく)を着るのだが、断線すると凍傷になる。ショートして腰に火傷(やけど)を負ったことがあった。

着陸直後に整備を始めなければならないので、機上で凍(こお)りついた弁当を食べたこともある。

関東軍大演習時に、尾輪(びりん)がパンクしたが、予備がなかった。チューブのかわりに布を固く詰め、水を含ませると、凍りつき、即席のソリッド尾輪となり、無事、演習を終えた。まあ、この人は、部品がなければ、日用品で戦闘機や爆撃機を修理するような人だからなあ。

いろいろと苦労したようだが、本人によれば、のちに機関係(きかんがかり)として担当した三式戦闘機「飛燕」で味わった精神的苦悩に較べれば、まだましだったと述べている。「飛燕」のエンジンを「ガラスの心臓」と揶揄(やゆ)する人がいるくらいだから、よっぽどだったんだろう。

一方で、たのしいこともあったらしい。

夏には、飛行演習後に、水泳兼魚獲りをしたが、これがダイナマイト漁*6だった。上流でダイナマイトを投入し、下流で二列横隊で待つ兵士たちが、気絶したり、死んだりして浮き上がった魚をつぎからつぎへと手づかみで岸へと投げ上げる。2回やると、俵(たわら)にして3杯(さんばい)くらいは獲(と)れたという。
*6:ダイナマイト漁は生態系に影響を与えるということで、今の日本では禁止されている。

美しいロシア娘に惹(ひ)かれて、喫茶兼食品店に入り、生まれて初めてソーセージを目にするが、何なのかわからない。食べ物だとわかり、註文(ちゅうもん)したのはいいが、一口食べて、どうにも口にあわず、残した。ロシアのソーセージがどれほど不味(まず)いのか、気になるところだが、昭和10年代前半の日本人には、馴染(なじ)みのない味だったということにすぎないかもしれない。

また、演習の際に足を運んだ喫茶店の可愛い娘から手紙が届き、もう一度、吉林(きつりん)に行きたいと胸をわくわくさせたこともあった。

坂井雅夫は整備兵としてすこぶる優秀だったのだろう。彼が担当した93式双軽爆撃機第89号機は、中隊長機や編隊長機となることが多かった。

当時の工作技術と整備技術では100時間で発動機(はつどうき)交換*7となる。彼の整備した機体は、4回の発動機交換を経(へ)て、年間400時間無事故だった。
*7:発動機はエンジンのこと。

そのことで表彰状を受け取っている。

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表彰状 

牡丹江松岡部隊八木隊陸軍航空兵軍曹 坂井雅夫 


右之者(みぎのもの)昭和十二年三月七日以降九三双軽第八十九号機機長トシテ同機ノ整備ニ専念シ累次(るいじ)ノ猛戦闘討匪(もうせんとうとうひ)ハ勿論(もちろん)、教育訓練ニ支障ナク全機能ヲ発揮(はっき)シ累計(るいけい)四百時間ニ至(いた)レリ。此ノ間四回ニ亘(わた)リ発動機ノ交換ヲナシタルモ、常ニ好調ナル成績ヲ持続シアリ。是(これ)右(みぎ)整備員ノ努力ノ賜(たまもの)タル事ヲ立証ス。仍(よっ)て茲(ここ)ニ之(これ)ヲ表彰ス。 


昭和十三年四月二日 牡丹江松岡部隊八木隊長 八木斌

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軽爆撃機とはいえ、400時間もの年間飛行時間にして、まったく故障しなかったのは、当時としては、そして、現在でも、驚異的であろう。今まで知らべたところ、これを超える記録が見つからないので、おそらくは、帝国陸軍航空隊の最高記録だろう。

やるな、93式双軽爆撃機第89号機(←そっちじゃないだろ)。

93式双発軽爆撃機










帝国陸軍航空審査部 坂井雅夫少尉:「キ61の神様」と呼ばれた男 その1


日本陸軍試作機物語 陸軍 実験戦闘機隊―知られざるエリート組織、かく戦えり

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早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。

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