2013年9月7日土曜日

日本が殖民地にならなかった理由(ちょっと真面目な戦国時代編)

第2次世界大戦直前で、殖民地(しょくみんち)となっていなかったのは大日本帝国とタイ王国だけであった。タイ王国は英国の殖民地とフランスの殖民地の間にある、いわゆる緩衝地帯(かんしょうちたい)であったから殖民地とはならなかったが、実質的には英国に支配されていたようである。

ここでは、戦国時代あたりに絞(しぼ)って、日本が殖民地にならなかった理由について述べる。

一般に資源がなかったからというのを中心に据(す)えて論ずる傾向にあるが、それは違う。

ミャンマー(昔のビルマ)は資源がなかったのに、殖民地にされている。資源がなかったので、資源を運び出す鉄道の敷設(ふせつ)を英国はしなかったし、そのほかのインフラストラクチャー(infrastructure:インフラ=社会基盤)が整えなかった。独立後、利用できる社会基盤がなかったから、ミャンマーは今でも最貧国のひとつなのである。

したがって、資源がなかったからというのは的外れである。しかも、実際には、金や銀の産出量はきわめて多かった。

では、なぜ、殖民地にされなかったのであろうか?

日本に派遣された宣教師たちは、まず、日本人の民度の高さを挙(あ)げている。これに似た例としては、パラグアイが挙げられる。パラグライの原住民であるインディオは民度が高く、進出したスペイン人は殖民地化できないと考えて、宥和政策(ゆうわせいさく)を採用した。その結果、パラグアイは、白人とインディオの混血がほとんどになった。一方、アルゼンチンは、原住民の民度が低いということで、大量虐殺(たいりょうぎゃくさつ)を行なった。人口の98%が白人であるのは、そういう事情による。

つぎに、日本は、当時、おそろしいまでの軍事大国であった。火縄銃が50万挺(てい)あったが、これは、当時の世界の火縄銃のおよそ半分を占めるものであった。今なら、世界の核兵器の半分を所有しているようなものであった。

また、豊臣秀吉による兵農分離の前の時点では、農民も戦(いくさ)に出ていた。武士と農民の区別がなかった。有名な武将でも夏の間には農作業をしていた例もある。

武田信玄が上杉謙信と合戦(かっせん)をする場合、稲刈(いねか)りを終えてから、戦(いくさ)を始め、田植(たう)えの時期が近づくと、休戦協定を結び、それぞれの領地に戻って行ったという例がある。

つまり、当時の成年男子のおよそ8割が軍人であり、兵士であったと言えた。

以上の観点からすると、他国にちょっかいを出されないようにするには、軍事大国になるのが最も効率的であると考えられなくもない。

日本が欧米の殖民地(しょくみんち)にならなかった理由について考えてみた。(お笑い編)

0 件のコメント:

ブログ アーカイブ

自己紹介

自分の写真
和歌山県, Japan
早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。

人気の投稿

pageTacker

フォロワー

StatCounter

ashi@