---
Aujourd'hui, maman est morte. Ou peut-être hier, je ne sais pas.
今日、母ちゃんが死んだ。あるいは、たぶん、昨日かもしれないけど、私にはわからない。
---
こんな冒頭(ぼうとう)なのである。
梗概(こうがい=あらすじ)にしても、こんな感じだ。
---
母親の葬儀(そうぎ)では悲しむ様子を見せず、その翌日には女性と情事に耽(ふけ)り、友人のいざこざに巻き込まれて、アラブ人を射殺し、殺害の理由を「太陽のせいだ」と答え、死刑判決を受け、死刑の場で人々から罵声(ばせい)を浴(あ)びせられることを期待する。
---
いわゆる不条理文学(ふじょうりぶんがく)である。
私自身は、こういうものは嫌いではない。若いころには、アルベール=カミュのほかにも、フランツ=カフカFranz Kafkaの小説やウジェーヌ=イヨネスコEugène Ionescoやサミュエル=ベケットSamuel Beckettの不条理演劇の台本を原書で読んだりしていた。
とはいえ、自分が好きだからといっても、こうしたものが一般受けするとは思えない。どうにも不思議だった。
あるとき、フランス人とフランス語圏のスイス人に訊(たず)ねてみた。答えは簡単だった。
課題図書になっているから。
これは、夏目漱石(なつめそうせき)の『こころ』と同じだ。新潮文庫の8月の売り上げ1位は毎年、『こころ』である。その理由は、夏休みの感想文の宿題となっているからだ。
とはいえ、アルベール=カミュの『異邦人』が課題図書になるのは、短い小説でありながら、多様(たよう)な解釈が可能だからであろう。
そういえば、黒澤明監督の『羅生門(らしょうもん)』も、私と同年代の複数のフランス人によると、学校での映画上映会で観賞(かんしょう)したという。この映画も多様な解釈ができるものである。
どうやら、フランス人は解釈の多様性のある芸術作品が好きらしい。
なお、日本人の感覚では実感できないのだけれど、アルジェリアを殖民地としていた当時のフランスでは、アラブ人を殺しても、罪には問われなかった。
殖民地では、家畜を殺したようなものだった。
だから、出版当時のフランス人の感覚からすれば、殖民地の人間を殺したからといって、死刑になるというのはまさに「不条理」であったのである。日本人には逆立ちしても気がつかない不条理さである。
A. Camus
Prentice Hall
売り上げランキング: 497,174
Prentice Hall
売り上げランキング: 497,174
Albert Camus
Penguin
売り上げランキング: 19,261
Penguin
売り上げランキング: 19,261
0 件のコメント:
コメントを投稿