2009年3月31日火曜日

LazyTown

LazyTownというアイスランドの子ども向けテレビ番組がある。100か国以上で放送されているすごい番組なのだが、日本の子どもたちはだれも知らないといってよい。

YouTubeの関連動画を観ていると、LazyTownの動画が出てきて、引き続いて、いろいろと観てみたのだが、パロディやMAD、その他の動画が数多くあることから、これは相当に有名な番組かなにかだろうと考えて、ずいぶんと以前に調べてみたことがある。
いつのまにか、日本語版のWikipediaにもレイジータウンの項目ができていた。興味のある人は、そこを読んで、さらに興味がわけば、英語版などのWikipediaも読むとよいだろう。
この番組は、Magnus Scheving(Magnusのuの上には´がつく。マグヌース=スキーヴィングと読むと思うのだが、日本語版のWikipediaの表記はちがう)が、アイスランドの子どもたちが観るのに適したテレビ番組がないということから、ならば、自分で製作してしまおうと始めた番組である。Magnus Scheving自身、Sportacusという役で出演している。上に貼りつけたYouTubeの動画で青い服を着ているお兄さんだ。スポーツ=エアロビック(エアロビック=ジムナスティックス)で、2年連続チャンピオンになっている。
ピンクの服を着た女の子も、ブロードウェーの女優をやっているらしい。
100か国以上で放映されているということは、国連加盟国の過半数となる。テレビの普及率の高い地域から順に100か国くらいと考えられるから、先進国のほとんどでは放送されていると考えてよいだろう。
こういう番組をどうして日本で放送していないのだろうか?
放映権を買って、吹き替えをするだけで済むのだから、きわめて安上がりに番組ができるはずだ。
将来、今の日本の子どもたちがある程度の年齢になって、海外に留学したり、あるいは仕事で海外勤務したりしたときに、ほかの国々の人たちが、子どものころにLazyTownを観ていたという話題になったときに、日本人だけが蚊帳の外になるだろう。これを、文化の鎖国とはまではいわないけれど、どうして、日本で放送しないのか気になるところだ。
テレビのキー局と広告代理店は、スポンサーから法外な制作費を取り、それぞれが、いわゆる「中抜き」というかたちでピンはねしているそうだ。数字は正確ではないが、たとえば、1億円の制作費の場合、広告代理店とキー局がそれぞれ、1500万円ずつ、ピンはねまがいのことをして、さらに、下請けの制作会社が孫請けの制作会社に丸投げする際に、ピンはねまがいのことをするらしい。
海外の良質なコンテンツを買いつけて、吹き替えをするだけだと、放映権と吹き替えの費用しか要らないから、高額な制作費をスポンサーに要求できない。つまり、中抜きができないので、海外のドラマなどを積極的には放送したくないのではないか? その結果、つまらないテレビ番組を観るくらいならと、GEOやTSUTAYAで海外ドラマを借りる人が多くなったのではないかな。
たとえば、LazyTownの場合、1話あたりの制作費は100万ドル(約1億円)だが、コンテンツの販売先が海外に多数あるからこそ、可能な制作費である。国内市場だけで、これほどの制作費をかけられる子ども番組はないだろう。
中抜きに拘泥(こうでい)しているうちに、だれもテレビを観なくなるわけだ。
LazyTownの英語版のDVDでも買おうかと検討している。
ちなみに、うちにはテレビはない。だって、観るべき番組がないんだもん。

2009年3月30日月曜日

化学調味料アレルギー

 化学調味料アレルギーというか、グルタミン酸ソーダアレルギーが自分にはある。いや、正確には、「アレルギー」と呼ぶほどのものではないんだが。
 食べた途端に、眠ってしまうのである。どんなに睡眠をとったあとでも、化学調味料入りの食品を摂(と)ると、寝てしまう。30分から1時間くらい寝てしまう。目が醒めると、脳が痺れた感覚が残っている。
 ほとんどの店で外食はできない。中華料理屋やラーメン屋は基本的に駄目。
 スナック類も駄目だ。食べた突端に、30分ほど寝てしまう。
 まさか、こういうちんまりした店の手作り弁当なら、大丈夫だろうと思うようなところのものでも、化学調味料満載だったりする。

 そんなわけで、ほとんどの食事を自炊をしているのは、グルタミン酸ソーダアレルギーによる。自炊しているうちに、だんだん自分の味付けしか、あまりおいしいと感じなくなってきているから、外食は「口に合わない」状態になっている。

2009年3月29日日曜日

パスタ屋の心意気はカルボナーラでわかる。

カルボナーラla pasta alla corbonaraで、パスタ屋の営業方針がわかる。

日本人はフランス料理がそれほど好きではない。フランス料理は、日本人の好む「うまみ」に乏しい料理なので、普通の日本人がフランス料理を食べても、おいしいとは感じない。

イタリア料理は、トマトを熱することで「うまみ」が増す。また、ふんだんにチーズを使うので、チーズのうまみも堪能(たんのう)できる。

そうしたイタリア料理のなかでも、カルボナーラはやや異質だ。熱したトマトのうまみがない。そのぶん、日本人向きの料理ではない側面がある。

カルボナーラは、イタリア料理のなかでは、日本人にとって、うまみがない料理であるわけだ。

そうなると、素材そのものが上質でないと、おいしいとは感じられないものになる。

ちゃんとカルボナーラをこしらえようとすると、おいしいパスタに、豚の頬肉(ほほにく)を塩漬けにして数週間寝かせたものであるグアンチャーレguanciale di maiale(または豚のばら肉を塩漬けしたパンチェッタpancetta)と、1個60円くらいの卵、その場で挽いた上質な黒胡椒(くろこしょう)を使わないと、うまいカルボナーラにはならない。ちなみに、レボーニ社LEVONIのグアンチャーレは100g861円だ。

料理の原価率は30%に抑えるものだそうだから、一皿3000円くらいでも、経営が苦しい。業務用で材料を仕入れるともっと廉(やす)くなるのだろうけど。

一皿1200円くらいにすると、添加物だらけのベーコンをはじめ、廉い素材で調理しなければならなくなる。日本人に訴えるうまみに乏しい料理であるうえに、素材がよくないとなれば、おいしいとは感じない。

そこで、味を追求しているわけではないパスタ屋では、日本人好みの「うまみ」を人工的に加える。

安直なところでは、化学調味料を添加する。ましなところでは、昆布茶(こぶちゃ)を隠し味に入れたり、昆布粉を入れたりする。

さらには、別のものを加えて味をごまかす。ひどいものになると、キムチカルボナーラなんてものがある。辛いものを入れることによって、素材の悪さをごまかすという作戦だ。キムチカルボナーラだの、カルボナーラ(キムチのせ)だの、カルボナーラ(キムチ風味)だの、素材の悪さを辛さでごまかしていると自ら宣伝しているようなものであるとしか、考えられない。

その一方で、個人経営の店のなかには、適当な値段で本当においしいカルボナーラはつくれないということで、メニューからはずしている店もある。潔い態度だ。

イタリア人が調理人だったり、あるいはイタリアで修行してそのとおりに調理している料理人の店では、日本人に迎合せず、「うまみ」を加えずにカルボナーラをこしらえるところもある。個人的にはこういうのが好きなんだな。

2009年3月28日土曜日

生徒に宿題を出された。

 生徒に宿題を出された。
 『青い蓮』Le Lotus bleuを読んで感想文を書くというもの。
 『青い蓮』はタンタンの冒険旅行シリーズLes Avantures de Tintin et Milouの1冊で、『ファラオの葉巻』Les cigares du pharaonの続編らしいが、『ファラオの葉巻』を知らないままだと、読んで愉しいのだろうかという疑問を抱いている。

 知り合いの京都産業大学の学生が卒業論文のかわりに、タンタンの冒険旅行の1冊を訳して、カラーコピーで複写したものに日本語訳を貼りつけ、製本したものを卒業論文として提出したそうだ。そういうものが卒業論文として受理されるというのを聞いて、ひどく驚いた。

2009年3月27日金曜日

日本の小学校低学年の計算力は世界的に相当なものだが……

 日本の小学校低学年の計算力は世界基準で考えると、相当なものである。しかし、一般の日本人はそのことに気がついていない。日本人の計算能力しか知らないから、すごいということに気づいていない。
 日本語の数の表現は、すぐれて十進法的である。
 「十二」といえば、「10」と「2」から成り立つ数だとわかる。
 ところが、英語のtwelveでは「10」と「2」から成り立つ数だとは直観的にわからない。フランス語のdouzeでも、ドイツ語のzwölfでも、わからない。英語の「13」以降はthirteen、fourteen、fifteenなることから、「12進法」の名残だということが見て取れる。
 フランス語では「80」をquatre-vingtsという。quatreは「4」で、vingtsはvingt(20)の複数形で、つまりは、「4つの20」あるいは「4倍した20」という言い方だ。これは「20進法」の名残であろう。「97」となると、quatre-vingts-dix-septであり、これは「4倍した20に10を足して7を足したもの」という意味だ。
 東京都知事の石原慎太郎は「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする」と述べたが、「数を勘定できない」という点はそれほど間違っていない。ただし、「国際語」というものは、その言語を使用する国家が覇権を握れば国際語になるのであって、言語そのものがどうこういうものではない。
 Le Petit Nicola(かわいいニコラ、邦題は『プチ・ニコラ』)を読むと、小学生が騒いでいるときに、騒いでいると午後の授業は算数にしますよと教師が言った途端(とたん)に、全員がぴたりと静かになるという場面がある。そのくらいにフランス人は計算が苦手なんだな。
 フランス語は数を勘定できないとしても、場合によっては、利点もある。十進法的ではないから、そうしたことに囚(とら)われることなく、「数」そのものを洞察できる。その結果、フランスという国は、整数論ですぐれた業績をあげている(英国は代数が得意で、日本はなんだかんだと微積分が得意である)。

 日本語は十進法的言語表現で数を述べるので、日本の小学校低学年は、世界全体で見れば、きわめて計算が得意である。
 しかし、小学校低学年の児童の計算力が高いからといって、数学にすぐれた民族と考えるのは間違っている。たまたま使用する言語が簡単な計算に適していたにすぎない。それに「九九」なんて、すぐれたアイテムもあるにすぎない。
 とはいえ、日本人というか、東洋人というか、そのあたりが潜在的に数学の才能があると考えられる理由はあるので、気が向いたときに述べる予定である。

2009年3月26日木曜日

「数え上げ」と日本人

 数学の問題にも、流行がある。その例を述べよう。

 数学者の秋山仁とピーター=フランクルが指摘したのだが、日本人は「数え上げ」が苦手であるそうだ。数学オリンピックの成績を分析しても、日本人の「数え上げ」の苦手っぷりがよくわかるという。日本人は「数え上げ」が苦手だとこのふたりが喧伝したおかげで、その後、「数え上げ」の問題が中学入試・高校入試などでは、急に多く出題されるようになった。
 「数え上げ」の問題をしくじったせいで、受験に失敗したことがあれば、もしかすると、その「数え上げ」の問題が出題されたのは、秋山仁とピーター=フランクルの言説が原因だったかもしれない。

2009年3月25日水曜日

早稲田なのに、どうして、頭が悪くないんですか?

 ずいぶんと以前のことだけど、経営者が開成中学・高等学校出身で、東京大学出身というじつにこぢんまりとした予備校・学習塾で非常勤講師をしていたときのことだ。
 講師会議に、非常勤講師も呼び出されるというところだった。
 会議の途中で、不意に、東京大学出身の講師に訊(たず)ねられた。

 「掃除機先生は、早稲田なのに、どうして、頭が悪くないんですか?」

 すると、ほかのふたりの東京大学出身の講師が、「私も疑問に思っていたんです」という意味のことを言い、さらには、一橋大学7年生の学生バイトの講師にも、同じようなことを言われた。
 そんなことを言われてもなあ。

 そのときに思ったのは、学歴って大事だなあということだったが、同時に、「頭が悪くない」というくらいのことがわかるのであれば、それほど大事でもないような気もした。

 「早稲田なのに、どうして、頭が悪くないんですか?」と言われたってことを、早稲田出身者に言ったら、ほとんどの場合、本気で怒っていたが、それほどのことではないと思うのだが。

 どうでもいいけど、その予備校の東京大学出身者は、決して、東大とか、東京大学卒業とか、そういう言い方を絶対にしていなかったのは、どうしてなんだろうか?

2009年3月24日火曜日

3期体制あるいは3段階のステップの中高一貫校について

 保護者にアピールするために、名称はいろいろとあるが、3期体制と、6年間を3つにわけている中高一貫校がある。中学1年・2年は基礎期、中学3年・高校1年は練成期または充実期、高校2年・3年は習熟期または発展期などと分けている。
 このこと自体は、べつに問題ではなく、6年間を3つに区分けして、それぞれの時期の目標を掲げていても、かまわない。
 学校選びの際に、担当の教員が、6年間の持ち上がりなのか、それとも、中学1年・2年担当の教員が、ずっと中学1年・2年の担当のままなのかをチェックしたほうがよい。

 もしも、3つの段階にわけて、それぞれの段階を担当している教師が、ずっと同じ段階を担当しているようであれば、教育効果はいささか低くなる。
 中学3年・高校1年を担当している教師は、その時期に教えることしか知らないので、実際の大学受験でよく出題されるところと、そうでないところの区別ができなくなる。その結果、軽く流してよいところも、重視すべきところと同じ比重でもって教えようとする。ここに時間とエネルギーの無駄が生じる。この傾向は、文系科目に強く見られる。

 ちょっと調べたところでは、3期体制にしているところで、職員室が3つに分かれているようなところは、教師が同じ段階の生徒を教えるだけであったりする。
 教師の賃金の安いところは優秀な人材を集めるのが難しく、2年分のところだけのスペシャリストに養成するほうが、コストを低く抑えることができる。大学受験を念頭においた効率のよい指導を目指しているのではなく、コスト削減が大きな目的である場合もなくはないようである。
 ところが、2年分のところしか教えていないと、全体の流れの中で、大学受験を考えた場合、どういうところを削ればよいのかがわからず、すべてを教えようとしてしまう。無駄が多くなってしまう。

 このあたりのことは、調べられるのであれば、調べておいたほうがよいだろう。

2009年3月23日月曜日

「ちっともすごくないとだれもが思ってしまうが、自分だけ密かにちょっと自慢に思っていること」選手権をやったことがある。

 「ちっともすごくないとだれもが思ってしまうが、自分だけ密(ひそ)かにちょっと自慢に思っていること」選手権というものをやったことがある。
 ルールは簡単だ。自分では自慢に思っているが、だれもそれをたいしたものだとは思わなければ思わないほどえらいというものである。

 意外なことに、だれにでも、こういった種類の自慢はあるものだ。

 まずは、私の自慢。

陸上部員以外の1500メートル走の校内記録保持者で、少なくとも15年間は記録更新されなかった。

 あまりにもしょぼい自慢なので、高評価が得られなかった。「陸上部員以外」ってところが、「ちっともすごくない」感を出しているが、記録そのものが悪すぎるし、笑えるところがない。

 つぎは、少しはすごいが、だれもがうなるほどではないもの。

京都大学卒業後、日本に帰国することなく、連続して2年以上、ザンビアに住んだ初の日本人である。

 この自慢が、ウケないのは、ザンビアの知名度の低さにある。たいていの場合、「ああ、あのザンビアに2年連続して住んだ初の日本人なのか!」とはならない。そもそも、ザンビアがアフリカにあるのか、南アメリカにあるのかさえ知らないのが、普通の日本人だろう。ザンビアの知名度の低さゆえに、「すごくなさ」が伝わらない。

 だれもが優勝だと認めた自慢は、こういうものだった。彼は、とある外国語大学を卒業後、会社員をしていたが、経営学に興味あって、なんとなく慶應義塾大学大学院を受験したら合格したという経歴である。

慶應義塾大学の大学院生の運動会(体育祭)の腕相撲大会で、2年連続優勝した。

高い評価を得て、笑ってもらえた理由:
 腕っ節(うでっぷし)はそれなりだが、それでも、東海大相模や帝京高校では腕相撲でチャンピオンになれそうにないという点で、「すごい」と思わせない。
 さらに、「慶應義塾大学」が、軟弱なイメージを倍化させている。

 いちばん、趣旨に反した答えの例。

早稲田大学大学院(文学研究科フランス文学専攻)の入試で、筆記試験に関しては、過去数年も含めて、他の追随を許さぬ断然トップの成績で合格した。

 だめだ、こいつは。この選手権の趣旨がわかっていない。
 当然、袋叩きにされた。 

2009年3月22日日曜日

シナモンティー

ぼくが今よりもずっと若かったときの話だ。

「これでシナモンティーを淹れてね」と言われて、もらったのが缶に入ったシナモンスティックだった。
 ポットにシナモンスティックだけを入れて、お湯を注いだ。

ハッカのかおりがするだけの白湯(さゆ)だった。こんなものを、どうして好む人がいるのだろうかと思った。とくに、男性よりも女性がシナモンティーを好むらしいが、まったく理解できないと思った。

 とはいえ、本当の感想をいうわけにはいかず、シナモンスティックをくれた東京女子大学の学生には、「ああいう、あっさりした感じの飲み物も、悪くはない」などと適当なことを行っておいたが、会話が進むうちに、ぼくが、シナモンだけを入れたポットにお湯を淹れて飲んだということが、相手に知られた。

彼女は大笑いしていた。

シナモンティというのは、紅茶の葉とシナモンスティックの両方を入れたポットにお湯を注いでこしらえるものだったのかと、初めて知った。

麦茶は、炒った大麦で淹(い)れるお茶である。

どくだみ茶も、どくだみの葉だけで淹れるお茶である。

蕎麦茶(そばちゃ)だって、焙煎(ばいせん)した蕎麦(それも、たいていは韃靼蕎麦(だったんそば)だけ)で淹(い)れている。

 シナモンティーという名前から、「シナモンだけから淹れるお茶のようなもの」と推測するのは、なにもおかしくはないと思った。

 しかし、反証事例があった。
 ミルクティーだ。
 「紅茶にミルクが入ったお茶」である。
 決して、ミルクだけを入れたポットにお湯を注いでこしらえるものではない。
 「紅茶にシナモンのかおりのついたお茶」と成り立ちが同じである。

2009年3月21日土曜日

Canberraとinputの発音

 Canberraはオーストラリアの地名で、inputは「入力」の意味だが、Canberraとinputの発音を辞書で調べると、こうなっている。

Canberra
/kæˈnberə/

input
/ɪˈnpʊt/

 なお、発音記号の/ˈ/は、その直前の母音に強勢(stress、いわゆるアクセント)があることを示している。
 英単語・英文を自動的に発音記号に変換するサイト(「英語を学ぼう」)で発音記号にして、それを複写・貼り付け(コピーアンドペースト)をしている(日本で長く用いられてきたジョーンズ(Jones)式でないと困る場合は、英語-発音記号カタカナ変換のサイトでジョーンズ式の発音記号にしてくれるよ)。

 発音記号を見ると、/b/や/p/の前に/n/があるのは、変だと感じないかな?
 b、pは、破裂音で、いったん、上下の唇がくっついてから、音を発する。mは上下の唇がくっつくが、nはそうではない。だから、b、pの直前にある「ん」の音は、mの音になる。mは上下の唇がくっつくが、nはそうではないからだ。

 英単語の綴(つづ)りは、b、m、pの前の「ン」はmであると中学生や高校生に教える。その例外は、自分の知るかぎりでは、Canberraとinputなのである。

combat 闘い
combination 組み合わせ
combustion 燃焼
compare 比較する
compensation 償い
company 仲間、会社
compass 羅針盤
compassion 同情
compulsive 強制的な
computer コンピュータ
command 命令
commisioner 理事
commemoration 祝賀
impedance インピーダンス▼交流における電圧の電流に対する比
imprudence 軽率、無分別
impatient 気短な
temper 気質
resemblance 類似

 こんなぐあいである。

 日本語でも、同じだ。たとえば、「しんぶん(新聞)」は、ヘボン式ローマ字表記で、shimbunと綴(つづ)るのは、あとにつづく-bun(ぶん)の-b-の影響を受けて、shin-(しん)の-n-が、-m-に変化しているからだ。nを発音した直後にbやpを発音するのはむずかしい。「間(ま)」をおかないと、-nb-や-np-は発音できない。

 実際には、おそらく、だれもが、
Canberra
/kæˈmberə
input
/ɪˈmpʊt/ 
と発音しているはずなんだが、どういうわけか、-n-のままなんだよな。

 不思議でならない。

2009年3月20日金曜日

「小泉今日子 全裸以上」に騙されたことがあるんだけど……

 1986年11月のある日、夕刊を読んでいた。紙面の下に、週刊誌などの広告が載っていたんだが、突然、「小泉今日子 全裸以上」という文字が目に入った。

 なんだと! 「全裸以上」と書いてあるではないか? たとえば、「5以上の整数のとき」といえば、5という整数は含まれる。ということは、「全裸」を含むはずだ。いや、含まなければならない(このあたり、正常な判断力を失っている)。
 こ、こ、これは、ぜひとも観ないといけない。即座に近所のコンビニエンス=ストアに突撃した。

 ひとつ、困ったことがあった。掲載誌は「週刊プレイボーイ」なのだ。
 うーん、困った。
 本当に困った。
 コンビニで堂々と「週刊プレイボーイ」を立ち読みする度胸はない。
 かといって、買う勇気もない。
 目をやると、若い女性がレジ係ではないか!? 
 若い女性のいる前で、堂々と「週刊プレイボーイ」を立ち読みできる若者はどれほどいるのであろうか? ましてや、レジで買えるはずもない。
 そうして、「週刊プレイボーイ」にちらちらと目をやりながら、ラックの前を行ったり来たりしながら、迷いに迷った。
 そもそも、過半数の記事を読むようでなければ、立ち読みで済ますタイプなのだ。だから、グラビアひとつのために週刊誌を買う習慣はない。「週刊文春」や「週刊新潮」なんかで気になる記事があっても、たいていは図書館で読むだけだ。
 ところが、である。「週刊プレイボーイ」は図書館に置いていない。
 
 結局のところ、勇気をふりしぼって、購入することにした。
 コンビニの外から見える位置で、10分間、立ち読みすることによって、近所の人、数人に目撃されるリスクを犯すよりも、たかだかひとりの女性店員にだけ、恥をさらすだけのほうがましだと考えたからだ。

 死ぬほど恥ずかしい思いをして「週刊プレイボーイ」を買った。雑誌をにぎりしめて、ダッシュで下宿に戻った。

 小泉今日子のレントゲン写真が載っていた。

 

2009年3月19日木曜日

「早稲田大学数学研究会」の会長だったのだが……

 「早稲田大学数学研究会」というサークルの会長をやっていた。
 というと、まじめなサークルのようで、実際、すこしはまじめなサークルであったが、私を含めて2人しかいないサークルだった。それ以前に、サークルと呼んでよいのかさえ、不確かなものであったし、卒業したら、新入部員がおらず、そのまま消滅した早稲田大学非公認サークルであった。
 大学2年生の3月に、1・2年次の語学のクラスも、哲学専修でも同じという奴と、でっちあげたサークルだった。
「なあ、大学に入ってから、本を読むか、勉強するか、そんなことしかしてないよな。かといって、今さら、お遊びサークルにも入るわけにもいかないし、いや、まじめなサークルも入りづらい」
 ということで、「入りづらいのならば、自分たちで作ってしまえ」ということになった。
 当初、論理学の勉強会をふたりで開く予定であったから(文学部は「勉強会」を、理工学部は「自主ゼミ」を早稲田では使う傾向が今でもある)、「論理学研究会」か、「現代論理学研究会」あたりにしようと考えたが、サークル一覧を検討した結果、なんと、「数学研究会」がないという事実に遭遇し、ならば「数学研究会」にしようと考えた(ちなみに東京大学には「算数研究会」はある)。
 新入生のためのサークル紹介号を発行する「マイルストーン」という同人誌のサークル(ミニコミ=サークル)があった。そこの登録用紙に所定の事項を記入したものを提出すると、「サークル紹介号」に掲載されるのだった。
 検索にかけてみたら、「マイルストーン」は今でもあった。


 登録に際して、歴史のあるサークルの正式名称は正字体(いわゆる旧字体)が多いということに気がついたので、正字体の名称を正式なものとして採用することにした。

田大學學研究會

 どうです、正字体で書くと、昔からありそうな感じがするでしょう? ほんとは、「研」の字も、正字体があるのだけれど、うちのパソコンでは見つからなかった。
 紹介文では、論理主義に基づく数学基礎論の復興・再構築を目指すサークルですなどと書いておいた。
 数学基礎論というのは、もともとは数学を基礎づけるものだったんだが(今はちょっとちがう)、基礎づけるやり方に論理主義・直観主義・形式主義の3つがあった。しかし、当時、論理主義はすでに破綻(はたん)しており、直観主義の立場をとる数学者も世界で数人、大半は形式主義の立場であった。
 そんなときに、論理主義に基づいて数学基礎論の復興・再構築を目指すってだから、理工学部数学科の連中が読めば、大爆笑することまちがいないという紹介文だった。もちろん、わざとそうしたんだが。

 で、サークルのメンバー募集の成果はというと、問い合わせ0件、新入部員0人だった。
 ぼくたちは、文学部の空き教室で、ふたりきりで、命題論理学を完全性の証明くらいまで勉強し、クルト=ゲーデルKurt Gödelの不完全性定理Gödelsche Unvollständigkeitssatz(←このドイツ語は「ゲーデルの不完全性定理」って意味なので、くどい表現になっている)は、おおまかなところだけ勉強した。現代論理学関係が大半だった。

 4年生になって、思いもかけないことがあった。
 企業からの就職勧誘のダイレクト=メールがどんどん届くのである。当時は、ウェブがなかったので、ダイレクトメールで学生を集めようとする企業が多数あったのだ。
 5通だったら、今日はやけに少ないと感じ、10通でもなんとも思わず、30通を超えると、おや、今日はちょっと多いなと思うようになった。毎日毎日、そんなに届くと、捨てるのもたいへんだった。
 早稲田って、えらい人気者だなあと思っていたが、第一文学部のほかの学生のところには、それほどまでには就職勧誘のダイレクトメールは届いていなかった。
 「マイルストーン」のサークル紹介号に掲載した情報が大学の外部に流れていたのだ。名簿屋を通じて、売られていたらしい。
 早稲田ごときで、こういうことを述べるのもなんだけど、超1流企業でなければ、早稲田のサークルで会長なり、幹事長なりを務める人材は、喉(のど)から手が出るほどほしいと思っているところは意外と多いらしい。普通レベルの早稲田の学生を束(たば)ねることができる人材だと考えるらしい。

 ということで、就職活動の裏技。
 早稲田大学に入って、適当なサークルをでっち上げて、マイルストーンに登録して、会長になっておけば、ちょっとは有利になるかも。就職活動というものをしたことがないので、どのくらい有利になるのかはわからないが。

2009年3月18日水曜日

「電話帳」を売りつける進学塾

 金融不況で、経営が苦しい中、「電話帳」を売りつける大手進学塾があるそうだ。
 「電話帳」というのは、昨年度の入試問題を集めたものだ。その分厚さから、「電話帳」と業界内では呼んでいる。
 たとえば、旺文社からだと、『2009年度 受験用 全国高校入試問題正解 国語 数学 英語』というものがある。「リスニング問題CDつき」という文字も添えられている。5,565円(税込み)だ。
 『2009年度 受験用 全国入試問題正解 社会 理科』だと、3,150円(税込み)だ。
 書店と同じ値段で仕入れると、1割が利益になるから、『2009年度 受験用 全国高校入試問題正解 国語 数学 英語』の場合だと、本体価格5,300円の1割だから、530円が1冊あたりの利益となる。
 かりに、中学3年生の生徒数が1万人だとすれば、530万円の儲(もう)けである。
 うまいこと考えるなあ。
 ところが、こんなものを買わされても、あまり役に立たない。大半を占める公立高校の問題は易しすぎるので、解く意味がない。出題のタイプが違うと、これまた役に立たない。演習する問題の取捨選択が重要であるのだから、生徒が買うことに積極的な意味はない。限られた時間で効率よく得点力を上げるには、無駄が多すぎる。
 志望校にあわせて、解いてみる問題の取捨選択ができれば、それなりに役に立つのだけれど、それができるようなら、進学塾に通う必要はないし、それができるような保護者であれば、その塾に通わせる必要もない。
 あからさまな儲け主義だと思うけど、よく、こんなことを思いつくなあと感心してしまった。

2009年3月17日火曜日

「慶應義塾大学という学閥はない」と近所のじいさんが言っていたのだが

「慶應義塾大学という学閥はない」と慶應義塾大学法学部卒業の近所のじいさんが言っていた。

どこそこの企業は早稲田しか出世しないし、なんとかという企業は東大卒じゃないと出世しないそうだということが、話のきっかけだ。

そのじいさんによれば、慶應義塾大学という学閥はなく、かわりに、慶應義塾大学内に学閥が4つあるという。

4つって!?

天現寺一派中入組高入組大学入学組の4つですか?」と訊いたら、そうだという。

天現寺一派というのは、私が勝手にそう呼んでいるだけで、一般には、「幼稚舎から慶應義塾に入っている人たち」のこと。幼稚舎というのは、「幼稚」の文字が入っているということから、慶應義塾の幼稚園だと思っている人がいるけれども、小学校のこと。所在地は渋谷区恵比寿2-35-1だけど、近所に天現寺交差点があるからなのか、バス通学の場合、「天現寺橋」停留所で降車する場合が多いからなのかは知らないが、幼稚舎を指すのに、「天現寺」という地名をよく使うらしい。天現寺出身者[=幼稚舎出身者]しか入れないテニス=サークルが慶應義塾大学にはあるそうだ。

中入組とは、中学からの入学組、つまり、中学受験から慶應義塾に入った人たちのこと。

高入組とは、高校からの入学組、つまり、高校受験から慶應義塾に入った人たちのこと。

大学入学組は、大学受験から慶應義塾に入った人たちのことで、完全に「外様」扱いされる(らしい)。早稲田はこの逆で、高等学院出身者のほうが肩身は狭い。

この時点で、すでに気づいたであろうが、大学院から慶應義塾に入った場合、「慶應義塾」の仲間扱いされない。そりゃあ、そうだろう。アカデミックな学究心を備えた人を除けば、就職先が希望するところに決まらなかった人が進学するようなところに外部から入っても、仲間にはしてもらえんだろうな。

それにしても、学閥が4つに分かれているというのを聞いて、本当なのだろうかと思った。話をちょっと大袈裟(おおげさ)にしているなんじゃないのかな。

それで、慶應義塾大学出身者に訊ねてみたが、知り合いは浮世離れした人が多く、「さあ?」「考えたこともない」「学閥に関わる生活をしていないからなあ」「おれはひとりで生きてきた」というような答えばかりで、真相がつかめない。

それでも、記憶をたどるとこういうのがあったな。「慶應の同級生が会社を起こすので、一緒にやらないか」と誘われたという人は、本人も高入組で、誘った人物も高入組だったというもの。しかし、ある程度以上に親しい人間を集めたら、高入組で揃ったというくらいのものだろう。それを「慶應義塾高入組」という学閥とするは、どんなもんかなあ。

『就職でトクする大学・損する大学ランキング』(島野清志著・エール出版社)という本がある。

カバーには副題として「就職力で見た大学・最近格付け」「上場企業に入社できる大学・不利な大学」などと書かれている。

目次を一部、引用すれば、どういう内容の本かがわかるだろう。

「上場企業の役員数・管理職数からみた私立大学の就職力ランキング」
「都道府県、主要都市の幹部職員の出身大学」
「有名大学出身でなければ国会議員になるのは困難」
「やはり学閥は存在する、有力上場企業役員の出身校調べ」
「主要上場企業の社員年収ランキングと筆者お勧めの企業ガイド」
「OB役員が一番多くいる主要上場企業・全調査」

こんなのが並んでいる。そのなかで、たとえば、「やはり学閥は存在する、有力上場企業役員の出身校調べ」では、こういう記述がある。「2008年版」からの引用。出版されたのは2006年9月だから、情報は古いので、注意。

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流通

三越、大丸、松坂屋、阪急、高島屋と老舗の百貨店は慶応出身役員が圧倒的に多く、文字通り慶応の独壇場。同じく有力百貨店でドル箱新宿本店が絶好調の伊勢丹は早稲田出身役員が慶応を抜き去り、再逆転。

一方、スーパー、CVS(コンヴィニエンス=ストア)の最大手のセブン&ホールディングスは中央出身役員が多く、ナンバー2のイオンは慶応色が強い。有力CVSのファミリーマートは早稲田、慶応、パルコは慶応、立教などの典型的な分散型だ。

このほか関西地盤の有力スーパー、イズミヤは関西学院、食品スーパー大手のライフコーポレーションは慶応出身役員が多い。

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「OB役員が一番多くいる主要上場企業・全調査」の慶應義塾大学と早稲田大学のところに掲載されている企業名を見ると、こういうことがわかる。

慶應義塾大学 206社
早稲田大学  142社

いいかげんな気持ちでやったので、数え間違っているかもしれないが、OB役員が一番多くいる主要上場企業の数で、早稲田は慶應義塾の4分の3以下である。OBの数では早稲田が多いのに、この結果だ。

そういえば、2000年あたりの就職氷河期のとき、資本金100億円以上の企業に就職したのが、慶應義塾大学の場合、就職希望者のうち75%だったが、早稲田だと65%だったというデータを目にした記憶がある。

その記事は、早慶ともなれば、就職氷河期と呼ばれるような社会情勢でも、それほど大きな影響を受けないということを述べたかったようだが、教育学部・スポーツ科学部・人間科学部・社会科学部が慶應義塾にはないから、その分が10%の差となっているのかと、ちらりと考えた。

もしも、かりに、教育学部・スポーツ科学部・人間科学部・社会科学部を除いて、就職希望者の何%が資本金100億円以上の企業に就職したのかを出せば、早稲田だって、74.9%くらいにはなるかもしれないと考えてみたが、こんなことを考えた時点で、早稲田の2重の負けだ(←おまえが勝手に考えただけじゃないかという突っ込みがありそうだ)。

慶應義塾大学という学閥はなく、4つの学閥にわかれているというのが正しければ、大学から慶應義塾大学に入ったとしても、上記の206の企業のうち、大学入学組が役員の多数派ではないところ、たとえば、天現寺一派(幼稚舎出身者)ばかりが出世する企業に、大学入学組が入社しても、期待したほどには、トクはしないということになるのだろう。

役員の出身大学は『会社四季報』などで調べることもできるが、出身小学校までは調べられない。慶應義塾大学出身者が出世しやすい企業を選んで入社しても、そこが天現寺一派(幼稚舎出身者)だけが出世しやすかったりするという場合も出てくるということになる。

ちょっぴりギャンブル人生で、楽しそうだな。

追記:「慶應義塾大学OB役員がいちばん多くいる主要上場企業一覧」という記事を書いた。クリックすれば、飛ぶよ。

 

2009年3月16日月曜日

『"子"のつく名前の女の子は頭がいい―情報社会の家族』という本が出版されたことがあって……

 1995年に洋泉社から『"子"のつく名前の女の子は頭がいい――情報社会の家族』が出版された。著者は金原克範である。
 著者は姓名判断のたぐいを行なおうとしたわけではなく、「メディア論」として、執筆した。
 セーラームーンだったと記憶しているが、少女マンガ雑誌の連載されているだけのときのプレゼントつきの読者アンケートの名前の分布("子"のつく女の子の割合など)が、セーラームーンのテレビ放送開始後では、急激に変化したという。"子"のつく名前の女の子が激減したというか、テレビ放送開始後に新規に応募するようになった女の子には、名前に"子"がつかないのが多かった。
 『"子"のつく名前の女の子は頭がいい――情報社会の家族』という書名は、おそらく、編集者が売り上げが伸びるようにと、扇動的なものを狙ったものだろう。話題にはなったから、この編集者は立派であるのは確かである。

 ただし、この本が出版される以前から、塾関係者の間の一部では、"子"のつく名前の女の子が、上位クラスに多くなり、下位クラスには少ないということは、経験的に知られていた。
 十数校あるそこそこ大手の進学塾(小学3年生から高校生3年生まで在籍)の比較的規模の大きい教室では、中学3年生のクラスが、10クラスくらいあり、トップクラスの女子生徒の名前には、全員"子"がついていたし、ボトムクラス(いちばん下のクラス)では、どの女子生徒にも"子"はついていなかった。1990年くらいのことだ。
 最近では、"子"がつく名前は、本当に激減しているから、この例のようなところはもはやないだろう。

 金原克範によれば、こういうことだったと思う。

 保守的な家庭ならば、女の子の名前に"子"のつくものを選ぶ傾向が強い。
 保守的ならば、テレビをあまり見ない。
 メディアの影響を受けにくく、コミュニケーションがとれる。

 金原克範は、もうひとつ、さかのぼったところまで分析していなかった。保守的な家庭の子どもが頭がいい傾向にあるとして、それはなぜか?
 生徒の通う学校の名簿などを見たり、その他の情報を仕入れた結果、つぎの仮説を立てることは可能ではないかと考えた。
 高学歴ほど、晩婚傾向が強く、そうでない場合は、早く結婚する傾向がある。
 35歳が命名したくなる名前と、20歳が思いつく名前とでは、明らかに傾向が違うはずだ。
 1990年あたりで"子"のつく名前の女の子は、1980年あたりに生まれているとして、そのとき、父親が35歳とすると、1945年生まれだ。その年代の親からすれば、女の子の名前に"子"がつくのは自然である。
 一方、1980年に父親が20歳だとすると、1960年生まれで、その年代だと、"子"のつく名前の女の子が同級生には半数くらいだ。
 親の年齢が高いときに生まれた子どもは、ちょっと保守的な命名と感じるものになる傾向があるにちがいない。
 35歳で結婚した男性の第3子は、40歳から45歳に生まれているとする。一方、20歳で子どもが生まれた男性がいる。
 20歳以上の年齢の開きが、命名を左右する。40歳の男性は、20歳から25歳の男性がつける名前よりは、いくぶん古風なものを選ぶであろう。

 つまり、"子"のつく名前の女の子は、名前によって頭がよくなるのではなく、1980年あたりに生まれた女の子の場合、高学歴の父親が選ぶ名前には"子"が多かったから、結果的に、"子"のつく名前の女の子は、家庭環境の点でも遺伝子レベルの点でも、頭のよい子が多かったということであろう。

 最近、男の子の名前の場合、漢字一文字で、訓読みの名前の場合、頭がよい傾向があるような気がしている。漢字一文字で訓読みの名前というのは、たとえば、亮(あきら)、享(すすむ)、誠(まこと)、昇(のぼる)、晋(すすむ)などである。
 ちょっと保守的なんだが、充分なデータはないし、根拠もないんだけど。



2009年3月15日日曜日

『ベルリン・天使の詩』を5人の女の子と、それぞれふたりで劇場で観たんだが、6人目で……

 『ベルリン・天使の詩』(1987年)は、ヴィム=ヴェンダースWim Wenders監督の作品である。日本語のタイトルは『ベルリン・天使の詩』だが、ドイツ語のタイトルはDer Himmel über Berlinであり、「ベルリンの空」という意味であり、同時に、「ベルリン上空の天国」という意味でもある。直訳的に英語にすると、The Sky over Berlinであり、同時にThe Heaven over Berlinでもある。英訳の題名はWings of Desireで、フランス語の題名はLes Ailes du désirで、どちらも「欲望の翼」という意味である。ほかの言語は、おおむね「ベルリンの空」の意味だ。たとえば、イタリア語の題名なら、Il Cielo sopra Berlinoである。
 ニコラス=ケージNicolas Cageとメグ=ライアンMeg Ryan主演の『シティ=オブ=エンジェル』City of Angels (1998年)は、この作品のリメイク。



 東西冷戦下のベルリンが舞台の映画だ。人類が登場する以前からベルリンを見守る天使ダミエルDamielは、サーカスで空中ブランコに乗るマリオンMarionに一目惚(ひとめぼ)れをする。やがて、永遠の命を捨て、人間になることを決意する。
 『刑事コロンボ』で有名な俳優ピーター=フォークPeter Falkが「ピーター=フォーク」役で登場する。ピーター=フォーク自身、かつては天使であったが、観察するばかりで、なにも直(じか)に経験しないことに倦(う)み、永遠の生命を捨て、人間になっていたのだった。
 ダミエルは人間になる。それまでモノクロだった画面が、ダミエルが人間になると、ふいにカラーに切り替わる。天使から人間へと「生命」を体験する。血を流し、初めて色彩に触れ、食べ物を味わい、コーヒーを飲む。掌(てのひら)を擦(こす)りあわせると温かくなることに、新鮮な驚きを感じる。
 そして、ダミエルはバーでマリオンと遭遇する。



 フランス語訛りが少しはいったドイツ語のせいで、ちょっと不思議な台詞まわしとドイツ人は感じるらしい。

 この映画が公開された当時、しばらくして、知り合いの女の子に一緒に観に行かないかと誘われた。
 「この間、『ベルリン・天使の詩』って映画、観たんだけど、もう1度観ようと思ってて、掃除機くんも一緒に観に行かない?」
 時間的な余裕があったので、一緒に観に行った。
 記憶では、渋谷の単館上映で、1年くらいのロングランだった。

 それから、しばらくすると、別の女の子に『ベルリン・天使の詩』を観に行こうと誘われた。もう1度観てもいいかなと思ったので、一緒に出かけた。

 2か月くらいすると、また、別の女の子に誘われた。
 「掃除機くんなら、きっと気に入るよ」と、すでに1度見ている彼女は言った。
 3回観るのも悪くはないかなと思った。

 すると、また、別の女の子に誘われた。この彼女も、すでに観ているが、もう1度観たいと思ったのと、この人なら、きっと気に入るだろうと考えて、誘ってきたのだった。
 断るべき強い理由もないので、出かけた。

 しばらくしたら、またもや、別の女の子に誘われた。

 そんなわけで、『ベルリン・天使の詩』を劇場で5回も観たわけだが、よくよく考えてみると、これまで劇場で2回観た映画すらないのに、どうして、5回も観てしまったのだろう? 映画そのものがよかったということもあるし、わざわざ誘ってくれたんだから、よほどの理由でもないかぎりは、断らなかっただけというのが真相だろう。

 ところが、1年くらい上映していた『ベルリン・天使の詩』も、まもなく、上映終了になるということで、これまた、別の女の子からお誘いがあった。自分と同じ、哲学科の女子学生だった。
 5回も観ていて、さすがに飽きてきたところだったので、だれそれと初めて観て、2回目にだれそれと観て、3回目にだれそれと観て、4回目にだれそれと観て、5回目にだれそれと観たから、もう見飽きたので……と言った。
 「掃除機くんは、断るってことを知らないの?」と言ってきた。
 確かに、時間的・経済的に余裕がある場合には、断った経験がない。わざわざ誘ってくれたのだから、よほどの理由がないかぎり断ることはない。しかし、今回はちがう。
 だから、見飽きたから、今、断ってるじゃん、と心の中でつぶやいたが、ことばにすると、なにか、おそろしい事態に陥りそうなので、言わないでいた。
 ちょっと機嫌が悪いようだったので、「あの、その……、3か月以上前だったら、ぜひとも一緒に観たかった映画なんだが……」と言ってみた。

 『ベルリン・天使の詩』は単館上映としては、観客動員がよかったのだろう。どのくらい経ってからだったかは思い出せないのだけど、それほど経っていたわけではないと思うのだが、ヴィム=ヴェンダースの昔の映画がリバイバル上映された。『都会のアリス』Alice in den Städten(1974年)だ。英語だとAlice in the Citiesというタイトルだ。
 ジャーナリストの主人公が、ある女性に依頼されて、その子どもを祖母のところに届けるといういわゆるロードムービーに分類される映画だ。
 6番目の女の子から、『都会のアリス』を観に行かないかとお誘いがあった。
 「よろこんで」とぼくは答えた。
 映画の台詞(せりふ)に、哲学者のハイデガーやキルケゴールなどの著書から借用したらしいものが多く、個人的には、『ベルリン・天使の詩』よりもおもしろかった。でも、普通の人には『ベルリン・天使の詩』のほうが楽しめると思う。

 ところで、6番目の女の子から、後日、手紙をもらった。
 なんかの雑誌で、アメリカの小説家ピート=ハミルPete Hamillがノーベル賞作家のガルシア=マルケスGabriel Jose Galcia Marquezにインタビューした記事が載っていたという。
 そこで、マルケスは、小説を書く動機について訊かれ、こんなふうなことを答えたそうだ。曖昧な記憶でしたためる。

 「私はだれかに愛されたくて、小説を書いている。賞賛はいらない。ただ、愛されたいだけだ」

 彼女は続けて、こんなことを書いていた。

 私もきっと、だれかに愛されたくて、哲学を勉強したのだと思います。
 夜更けのアスファルトを、ハイヒールでコツコツ、音を立てながら歩くのが好きです。

 そのとき以来、ずっと疑問に思っているのだけれど、この人は、いったい、だれのことが好きだったんだろうか? まったく見当がつかなかった。大学卒業後、1年か2年くらいしたら、この人の高校時代の同級生で、東京大学工学部出身の男性と、この人が結婚したから、わからないままだ。相手の人は、「哲学的な工学部出身者」なのかもしれない。

 

ドイツ哲学の書籍をドイツ語で一定以上に読んでいるなら、『都会のアリス』がお薦め。

2009年3月14日土曜日

学生のとき、新宿区早稲田町に下宿していたんだが……

 大学生のとき、新宿区早稲田町70番地に下宿していた。早稲田町は正式には「わせだまち」と読むんだが、たいていの人は「わせだちょう」と読む。エガワ=エンタープライズという、野球評論家の江川卓が巨人軍の選手のときに開設した事務所が早稲田町にあった。早稲田町は〇〇番地だけで、1丁目などの区分がないくらい小さい行政区画だったが、小さいといっても、東西に細長くて、エガワ=エンタープライズは近くにはなかった。
 下宿は大学の南門から徒歩1分、文学部キャンパスから徒歩3分(実際は信号待ちも含めて5分くらい)のところだった。当時、道路の向かいには早稲田実業中学・高校があった。
 ちなみに、早稲田実業の敷地の南側あたりに、駐車違反し放題の場所があった。少なくとも当時の早稲田実業は、キャンパス周辺に駐車違反車両があっても通報することはなかったようだ。
 大学の合格発表後に、近所の不動産屋をまわって、早稲田町の物件に決めた。
 隣の部屋の人は、その年の3月に大学を卒業したばかりで、公認会計士の資格を取るため、勉強をしているという。てっきり早稲田の商学部を卒業したのかと思いきや、明治大学商学部卒業なのだという。
 どうして、こんなところに下宿しているんですかと訊いた。
 大学受験で浪人することになって、東京の予備校に通うために上京した。来年は早稲田大学に進学する予定なので、今のうちから、早稲田界隈の下宿にしておけば、大学合格後に引越しする手間が省けると思った。ところが、早稲田全滅で、明治大学商学部に進学した。
 そういういきさつだった。
 まあ、地下鉄東西線で早稲田駅から3駅先の九段下駅まで乗って、九段下駅から15分も歩かないところに大学があるから、下宿としては遠いわけではないどころか、「早稲田の近所」という点を除けば、ごく普通の大学と下宿の位置関係だろう。
 お隣さんは公認会計士の試験に合格した。推定6割以上が落ちこぼれる早稲田に入って、落ちこぼれてしまうよりは、よっぽどいい人生だろう。



↑噂では、早稲田の応援団は明治と対戦するときには、「チョッコレート、チョッコレート、チョコレイトは明治」のメロディで「ちょっと足りない、ちょっと足りない、足りないのはメ・イ・ジ」と唄っているらしい。私自身は早慶戦すら見物に行ったことがないから、実際には目にしていないが。

2009年3月13日金曜日

その昔、青山学院大学文学部の英語がむちゃくちゃ簡単だった年があって……

 ずいぶんと昔のことだが、青山学院大学文学部の入学試験で、英語が超易問、つまりむちゃくちゃ簡単だった年がったんだが、その年度に入学した友人からこんな話を聞いた。
 青山学院は、今よりは難しかった。大学入試は、だいたい1970年代・1980年代はどれもこれも今よりも難しかったんだが。当時の青山学院大学は、ちょこちょこと「こんな熟語を出すのか!?」というものを出したりしていた。
 たとえば、駿台予備校が駿台文庫の名義で発行している『新・英文法頻出問題演習』や、桐原書店が発行している『即戦ゼミ3 大学入試英語頻出問題総演習』で、(青山学院)のついている問題は、あまり目にしないものが多い。場合によっては、過去に青山学院しか出題したことがないようなものであったりする。さらに言えば、正解できなくてもよい問題、いわゆる「捨て問」というやつだったりする。正解できなくてもよいような難問を見せつけられると、こんなのまでできないと大学に行けないのかと思って、絶望的な気持ちになる高校生もいるんじゃないかと思うんだが。
 なんでもかんでも集めればよいわけではないと思うのだけど、問題集とすれば、これこれの問題があの問題集には載っていないと言われるのをおそれて、ついつい掲載してしまうのかもしれない。
 いっそのこと、特定の大学・学部ごとに英文法演習問題集を作りでもしたらよいのにと思うのだが、これは、採算が取れないから無理だろう。

 それはともかく、青山学院はとんでもない難問というか、瑣末な熟語・構文を出題したりしていたので、合格ラインは高くとも、満点が難しい大学という感じだった(あくまでも、昔の話ね)。
 ところが、ある年、出題者が、普通に英語の文献を読むのに不可欠でもないものを出題するのを嫌がったのか、それまでの出題傾向を無視して、自分の出題したいように出題したのか、真相は不明だが、ある年、青山学院とは思えないほど、英語がむちゃくちゃやさしかった年があった。
 満点、あるいは満点に近い得点というのが続出した年があったのだ。
 さて、友人はというと、なんだか英語はやさしかったなと思っただけだったそうだ。青山学院に入学して、同級生と話をすると、どいつもこいつも、「英語のことなら、俺様に任せておけ」という態度であったという。
 ところが、話してみると、どうにも、とてつもなく英語ができるわけでも、「すこぶる」つきの英語の達人というわけでもない。それなのに、周りの男子学生は、ほとんどみな、英語に一家言(いっかげん)あるというふうなのであったそうだ。
 友人は、どうしてこいつらは、並レベルの英語力なのに、英語に対して自信満々なのだろうか、不思議な大学に進学したもんだと思っていたという。
 後日、真相が判明した。だれもが90%以上の正解率で合格していたくらいにやさしい問題だったのだ。95%以上正解というのも、相当数いたんだろうな。そうなると、「ここじゃあ、英語で俺様に敵(かな)う者はめったにいないだろうな」と思ってしまうのも無理はないわな。

 それにしても、個人的に気になることがある。過去問演習で70%くらいしか正解できていなかったのに、本番だけが90%以上の正解率となったときに、「おかしい」と感じたのはどのくらいいたのだろうか? 

2009年3月12日木曜日

カラオケ館って、昼間30分40円なんだけど

 西武池袋線江古田駅南口に「カラオケ館」っていうカラオケ屋があるんだけれど、昼間午前11時から午後7時まではドリンクを1つ註文しなければならないが、ルーム使用料は30分40円である。これは安い。
 近所に武蔵野音楽大学や日本大学藝術学部(芸術学部)があるので、そこの学生が安く利用できるように、そういう料金になっていると思い込んでいた。
 ところが、うちの高校生によれば、カラオケ館はどこでも昼間は安く設定しているという。音楽大学や藝術学部は関係ないらしい。
 そう言われれば、大学構内には練習できる場所があるのだし、また、武蔵野音楽大学と日本大学芸術学部があるせいで、周辺には「楽器演奏可」の賃貸物件が多数あるのだから、楽器演奏の練習のためにわざわざカラオケ屋に行く必要はないわな。「楽器演奏可」の物件によっては、午前9時から午後9時までっていうところもあるけど。
 下宿では演奏できないから、カラオケ屋で練習しているという人が知り合いにいたので、音大があるから、昼間は格安料金にしていると思い込んでしまった。
 ちなみに、うちの生徒によれば、カラオケ館は、夜の営業での飲み食いで大きく稼ぐという戦略をとっているそうだ。

2009年3月11日水曜日

高校英語教科書UNICORN(ユニコーン)に関わる出版元の営業戦略

 文英堂という出版社がUNICORNという教科書を発行している。発行しているのは、つぎのもの。

 UNICORN ENGLISH COURSE I
 UNICORN ENGLISH COURSE II
 UNICORN ENGLISH READING
 UNICORN ENGLISH WRITING

 文英堂はほかにもPOWOWやSurfingやBirdlandという教科書を発行しているが、UNICORNほどメジャーにはなれずにいる。Birdlandは難しすぎるので、生徒のレベルがよほど高くないと採用できないらしい。

 文英堂のUNICORNの「営業上のセールスポイント」は、教師用指導書(教師用マニュアル)を、高校の英語教師以外の一般の人には絶対に売らないということである。
 そんなことがセールスポイントになるのは、まず、ほかの英語教科書の教師用指導書は入手可能だからである。
 教師用指導書が外部に流出している教科書の場合、塾や家庭教師が指導書を手に入れれば、高校側は定期試験の問題作成にあたって、「評価問題例」あるいは「問題作成例」などという名前で掲載されているものをそのまま流用できない。塾や家庭教師を通じて、評価問題例を試験前に解いている生徒もいるからである。ところが、作問能力に欠ける教師にとって、自力でテスト範囲から問題を作るのは、面倒この上ないし、苦痛であるし、そんな暇もない。
 ところが、文英堂のUNICORNの場合、営業戦略の一環として、教師以外には売らないという方針で、教師以外の者にUNICORNの教師用指導書を販売した教科書販売店に対して訴訟まで起こしている。それほど、外部に流出しないようにしている。
 もしも、文英堂の営業の言うように、教師以外に教師用指導書を入手する者がいないとすれば、問題作成例をそのまま複写すればよい。これは楽だ(同時に、楽だけど、自分の授業を生徒がどれだけ消化・吸収したかが判断しづらくなるから愉(たの)しくないと思うのだが)。

 そういうことから、英語の教師のレベルの高くない高校では、UNICORNを採用して、教師は指導書の問題作成例をそのまま流用している(もちろん、UNICORNを使っているが、ちゃんとした授業を行ない、定期試験の問題も生徒のレベルに合わせて作成している立派な高校も知っている)。

 文英堂の営業戦略によって、UNICORNを採用する高校は、英語の教師にやる気がない場合が少なくないという印象を抱いている。
 やる気のない教師にとってのメリットを考えてみよう。

(1) 指導書が流出していないから、定期試験では問題作成例を丸写しできる
(2) 指導書が流出していないから、いい加減な授業であっても、その教師が読み上げる訳を聞かなくてはならない。授業技術の乏しい教師に生徒が反抗できない

 以上のことがあるので、高校受験の偏差値が65くらいから下の高校で、UNICORNを使っているところには、一抹のいかがわしさを感じている。
 いい加減な教師の授業なら、生徒は聞かなくなるものだが、訳は聞かないわけにはいかないから、我慢して聞くしかない。つまり、UNICORNをめぐる文英堂の方針は、駄目教師にとって最高なのである。
 ところが、ウェブで教科書の訳を掲載する例が増えているし、途中の訳まで載せて、レッスン1つにつき幾許(いくばく)かの金額で販売しているところもある。
 無料閲覧できる状態でも、有料で販売しているところでも、文英堂がクレームをつけるらしい。訳がわかれば、授業は聞かないという生徒がいなくもないから、訳を公開されると、教師の授業を聞かない生徒が増える。それを防ぐために、クレームをつけているようだ。
 「文英堂(Unicornの出版社)から指摘を受けたので、サイト上での和訳の公開を取りやめます」という文言とともに掲載をやめたサイトがあるそうだ。そうした事例が複数あるらしいから、文英堂も徹底している。ただし、有料で販売する場合には、使用料を支払わなければならないから、有料で販売している者に対して文英堂がクレームをつけるのは、当然の行為である。
 一方、著作権法第35条によれば、営利を目的としない団体が無料の授業をインターネット上で行なう場合には、公表された著作物を複製できる。ということは、営利を目的としない団体が、教科書の英文とともに、その解説を無料で行なうことは、合法的な行為となる。
 どこか、そんなことをUNICORNでする人がいたら、おもしろいのにと思っている。

 なお、UNICORNにかぎらず、教師用指導書の問題作成例をそのまま複写して定期試験に使っている高校は少なくない。当校開校以前に勤めたことのある塾・予備校では、定期試験の問題を見れば、問題作成者が自分で作ったものか、指導書の問題作成例を複写したものなのかは、だいたいわかるので、見当をつけた高校の使用教科書の指導書を経営者・上司(教室長)に依頼して購入してもらい、コピーを生徒に配っていた。問題作成例をそのまま使っている高校は意外と多い。英語の苦手な生徒でも90点台がとれるし、苦手でない生徒だと満点がとれてしまう。
 なお、ほとんどが自作の試験問題の場合でも、発音問題とアクセント問題だけは指導書の作成例を丸写しする教員は、異常に多い。理由は不明だが、たぶん、音声学などをきちんと勉強した教員が少ないからなのではないかと推測している。
 指導書の作成例を解くだけで定期試験で高得点をあげても意味はない。大学受験の一般入試での得点力の養成にはならない。そんなやり方で内申点をあげて、指定校推薦で大学に進学しても、必ず、落ちこぼれる。TOEICのの点数が低いと、難関大学の学生でも採用しないという一流企業は少なくないから、指導書の問題作成例を入手することで定期試験での得点だけを稼(かせ)いでも意味がない。実力をつけるしかない。

追記:UNICORN ENGLISH COURSE Iクリックすると対訳のあるところに飛ぶよ。

  

「そのユニコーン、ちゃうやろ」というツッコミが聞こえるような気がする。

2009年3月10日火曜日

中学進学までにこれだけは必ずできるようにしておいてほしいことは何かと中学校教員に問い合わせたら……

 百ます計算を再流行させた隂山(陰山)英男が、以前、中学進学までにこれだけのことは必ずできるようにしておいてほしいことは何かと、さまざまな中学校教員に問い合わせたことがある。
 「べつにない」という回答も多かったが、とりわけ、目立ち、かつ、すべての教科の教員から出された回答はつぎのものだった。

「どうでもええけど、相手が子どもやからゆうて、嘘(うそ)を教えるのはやめてもらえんかな。嘘だと納得させて、訂正するのがたいへんなんやから」

 全国各地の小学校教員が、子ども相手に嘘を教えているとは思えないが、関西での調査だったので、関西出身の私としては、納得できる。ウケるためなら、なんでもする関西人は、教員も含めて、少なくはないからだ。吉本興業の影響だと思われる。いや、ウケるためならなんでもする気質があるから、吉本興業が受け入れられたとも考えられるが。

 それはともかく、私自身が気になっている話がある。

挨拶(あいさつ)の際に、アメリカ人は握手をし、日本人はお辞儀をする。アメリカ人は、手に銃を持っていないことを示すために、握手をする。一方、日本人は、お辞儀をすることによって、相手が殴りやすい状態にすることで服従の姿勢を示す。

 こうした内容を生徒に教える教員は、小学校にも中学校にも多い。高校生以上になると、ほとんどだれもが聞いたことのあるネタであるようだ。
 ところが、この話が正しいということを証明した人はだれもいない。
 ある資料では、アメリカ合衆国の銃保有の全国平均は41%であり、別の資料では32%であるから、「手に銃を持っていないことを示す」というのは説得力に欠ける。また、銃保有率第2位のインドでも15%くらいだし、第3位の中国で10%くらいである。したがって、握手はする国のほとんどが、銃保有率が10%未満であるということになる。だから、「手に銃を持っていないこと」を示すために握手をするというのは説得力がない。
 日本人のお辞儀にしても、たとえば、お辞儀をした相手の頭を軽くちょこんと拳骨(げんこつ)で触れるなどの儀式的行為があれば、説得力を持つが、お互いにお辞儀をするのであれば、殴ることはできない。また、日本のみならず、お辞儀という習慣は、中国やヨーロッパにも存在するし、神を対象とするものも含めれば、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教にもある。
 握手とお辞儀の起源を語るのは、頭の中の世界地図に日本とアメリカしか存在しないような人物なのであろう。

2009年3月9日月曜日

街の風景からわかること:電柱・蕎麦屋・クリスマス=セール・花屋・ローソンストア100とNATURAL LAWSON

 街の風景からわかることについて述べよう。生まれてからその街で暮らしていると見えてこないものが、部外者には見えているということがある。以下の内容は、東京23区を中心とした漠然とした観察の結果である。

 電柱
 あくまでも、住宅地に関してのものである。観光地などは除く。
 昔から人が住んでいる土地には電柱が多い。以前は湿地であったとか、農地であったとか、そういう場所には電柱が少ない。最近になって新興住宅地化した場所では電柱が少ない。
 以前は、地中に電線などを埋設するのは、技術的にもたいへんで、コストもかかったので、電柱が手軽であったが、現在では、電線類の地中化はそれほど困難ではないので、都心や観光地では電線類地中化が進んでいる。ただ、相当に以前から人が住んでいた場所では、わざわざ電線類地中化を行なわないので、「昔から人が住んでいる場所」は、電柱が多い。
 個人的には、ごちゃごちゃとした電線は日本らしくて好きなんだけど、外国の人には、景観を害するだけのものに見えるらしい。

 蕎麦屋
 蕎麦屋の数が多い場所は、昔から人が住んでいる土地である。30年くらい前から住宅地化したところでは、駅周辺で蕎麦屋が1軒くらいしかなかったりする。駅の施設内に立ち食い蕎麦屋があるだけの土地は、昔は人が住んでいなかったか、もしくは、埋立地などで、そもそも「土地でさえなかった」場所であることが多い。
 ラーメン屋の多い土地は、昔から人が住んでいなかった土地である確率が高い。ただし、西武池袋線江古田駅周辺は蕎麦屋とともにラーメン屋も多いが、ラーメン屋が多いのは、武蔵大学・日本大学藝術学部(芸術学部)・武蔵野音楽大学があり、若者が多いからである。

 クリスマス=セールのない商店街のある街
 12月になっても、クリスマスを思い起こさせるデコレーションを行なわない商店街というものが東京周辺に存在する。まったくクリスマス色がなく、いったい、どうしてなんだろうと思ったんだが、地元の人に訊いたところでは、ほかの宗教を邪教として排斥する、仏教系(日蓮宗系)の宗教団体の信者が多い土地で、クリスマス=セールを行なうと、買い物に来てくれず、売り上げが落ち込むので、12月下旬になってもクリスマスらしさを演出する店舗がないそうだ。クリスマス=セールのない商店街のある街は、所得水準が低く、学歴も低い傾向にあるそうだ(あくまでも伝聞情報)。

 花屋
 花はなくても、人は生きていける。所得水準の低い住人の多い街には、花屋がなかったり、あっても、せいぜい1軒だったりする。
 花は食べられないものな。菜の花のおひたしを除く。それから、カリフラワーは開花前の蕾(つぼみ)だから、花を食べているということにならないかという反論も不可。
 一方、花屋が多い駅前商店街もある。
 花屋が多いのは、住人の可処分所得が高いからであるといえる。
 中央線のある駅周辺には、花屋があちこちに点在していて、ひどく驚いたことがある。その駅の近くに住んでいる友人に訊ねたところ、戦後に1戸建てを建てた人たちのつぎの世代の夫婦が多く、住宅を買う必要はなく、せいぜいのところ、増改築だけなので、それほどの高所得でなくとも可処分所得が高いので、花を買う人が多いのだという。
 なるほど。
 可処分所得の低い地域なのに花屋が多い土地もあるが、その場合は、近くに大きな病院があるなどの要因によるものである。

 ローソン=ストア100とNARURAL LAWSON
 ナチュラル=ローソンがあるところは、高所得の住人が多く、ローソン=ストア100のあるところは、その反対の住人が多いような気がする。ローソンにしても、きちんと調査した上で店舗展開をしているのだから、当たっているんだろうな。
 ちなみに、うちの近所には、ローソン=ストア100があるよ。とほほ。

2009年3月8日日曜日

早稲田大学で第2外国語の選択で、第2希望としてであってもロシア語を選択すると、もれなくロシア語選択者にされてしまう。

 ほかの学部ではどうなのかは知らないが、少なくとも文学部と理工学部とでは、第2外国語の登録に際して、第1希望と第2希望を記入する欄がある。2つ書く欄があると、事情を知らない者は、2つ書き込まなければならないと思ってしまうものだろう。ところが、これが罠(わな)なのである。

 第1希望と第2希望の組み合わせごとに考えてみよう。

第1希望・第2希望の順で表記する。
ドイツ語・フランス語→ドイツ語に決定
ドイツ語・中国語→ドイツ語に決定
ドイツ語・ロシア語→ロシア語に決定
フランス語・ドイツ語→フランス語に決定
フランス語・中国語→フランス語に決定
フランス語・ロシア語→ロシア語に決定
中国語・ドイツ語→中国語に決定
中国語・フランス語→中国語に決定
中国語・ロシア語→ロシア語に決定
ロシア語・ドイツ語→ロシア語に決定
ロシア語・フランス語→ロシア語に決定
ロシア語・中国語→ロシア語に決定

 進学校出身者は先輩や同級生からこうしたことを知らされているので、どうしても〇〇語でないと嫌だと考えている場合には、第1希望には記入して、第2希望には何も書かない。ところが、第2希望は書かなくてもよいのだが、進学校出身ではない新入生は、記入欄があると、ついつい書き込んでしまうらしいのだ。その結果、ロシア語を記入した者を、全員、ロシア語選択者に仕立て上げるのである。
 早稲田は日本で最初に「ロシア文学科」を設(もう)けた大学で、今でも、他大学にロシア語学科はあっても、ロシア文学科はほかにない。それを維持したいのである。
 維持しようと思えば、ロシア文学科出身者の就職先を確保しなければならない。一定レベル以上にロシア語ができれば、それなりの就職先は確保できる(商社・新聞社・通信社など)。同時に、ロシア文学科の大学院出身者の勤め先も確保したい。大学教員として採用されるにしても、非常勤講師としての実績は必要だ。その実績を積ませるためにも、なるべく多くの学生にロシア語を選択してもらいたい。しかし、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)対アメリカ合衆国の冷戦では、ソ連が惨敗しているし、現在のロシアにしても、資源大国として、天然ガスの供給などで、いろいろと他国に嫌がらせをしているから、喜んでロシア語を選択する者は、今も昔も、それほどいない。
 そんなわけで、第2外国語の登録で第2希望にロシア語を書いた新入生はもれなくロシア語選択者にするのである。
 そうした事情を知らない者は、ドストエフスキーの『罪と罰』に感動したとか、トルストイの『戦争と平和」に感動したとか、そうした新入生が、つい、うっかりと第2希望としてロシア語を記入する。進学校ではない高校の出身者に多いようだ。高校の先輩からの情報があるとないとでは、4年間の大学生活に差が出るという一例である。
 そして、ロシア語を学ぶことになるのであるが、いざ、学び始めて、ロシア語の習得は相当に手ごわいと気づく。しかし、手遅れである。
 早稲田大学第一文学部(当時の名称、今はただの「文学部」)は、学科ごとの募集は行なわず、文学部として一括(いっかつ)して入学試験を行ない、当人の志望と1年次の成績によって、進級先の専修が決まる。ずっと以前は専修ごとに募集していたが、そうすると、どうしても早稲田に入りたい受験生が不人気専修に願書を提出して、合格後、もともと興味がない分野なので勉強しないまま中退するというケースが多かった。
 専修への進級の際に、ものをいうのは語学の成績である。
 ところが、ロシア語は英語などとはまったく別物の言語である。英語を勉強してあれば、ドイツ語やフランス語では、似たような綴(つづり)りの単語が多数ある。そういうのがあまりないのがロシア語である。さらには、繋辞(けいじ、copulaともいう)がない。たとえば、英語でHe is a boy.(彼は少年です)に相当するロシア語では、isに相当するものがない。英語でいうと、He a boy.みたいな構文らしい。これって、倒置構文かどうかがわからなくなる場合があると思うんだけど、ロシア人は困っていないらしい。日本語にもフランス語にも英語の進行形に相当するものはないけれど、別に困らないのと同じだろうな。
 ロシア語選択者の中には、ロシア語の難しさに困惑(こんわく)して、1年次の単位取得がうまくゆかず、第1志望の専修(心理学・社会学・英文学・考古学などが人気専修だった)に進級できず、不人気専修の哲学・東洋哲学・ロシア文学などに進級せざるを得ない学生がいた。ロシア語選択者で、希望専修に進級できなった者が哲学専修に進級すると、たいへんな目に遭う。哲学専修では、ドイツ文学専修よりも多くのドイツ語の文献を授業で読むのだ。第2外国語が苦手で、希望専修に進めなかったとしても、哲学科に来ると、授業で英語はもちろん、ドイツ語・フランス語での講読もある。ロシア語での講読はない。ロシア語選択者で、希望専修に進級できずに哲学専修に進んだ学生は、いつのまに、大学に来なくなっていたな。
 哲学や東洋哲学は抽象的過ぎるし、史学科は史料の読み込みが煩(わずら)わしいという理由で、ロシア文学専修(今は「ロシア語ロシア文学コース」という)に進級してしまい、成績不良で中途退学してしまうような場合もある。

 ロシア語選択者になってもへこたれずに、きちんと勉強した例も知っている。以前、HAL496に講師として在籍した理工学部数理科学科(現在の数学科)の人物は、優秀な学業成績であったので推薦で大学院に進学した。理工学部全体がそうなのか、数理科学科だけなのかは知らないが、すべての成績を数値化して順位を出すそうで、6番だったそうだ。本人の能力と努力、ならびにロシア語の負担を考慮に入れると、かりにドイツ語選択になっていたら、1番になっていてもおかしくないと個人的には思っている。うちの生徒にも同じことを考えた者がいる。ちなみに、その人物は、好きな数学者はドイツ人が多く、つぎにロシア人が多いという理由で、なんとなく、第1希望:ドイツ語・第2希望:ロシア語としたそうだ。

 もちろん、ロシア語やロシアの文化・文学に強い興味があり、気合が入っているのであれば、早稲田のロシア語・ロシア文学コースはいいところだと思うよ。

追記:早稲田以上の大学で、フランス語を選択した場合、こんなことになるというは、つぎの記事に書いてある。

追記:すべての学部でそうなのかは知らないが、文学部では、第2外国語に関して、第3希望まで書かせるようになっている。どうしてもロシア語選択者を増やしたいらしい。

2009年3月7日土曜日

大隈講堂の前で12時間連続呑み会をやったことがあるんだが……

 大学2年生のときに、大隈講堂の前で12時間連続呑(の)み会をやったことがある。前期試験が終わった7月のことだ。
 基本的には第一文学部哲学科哲学専修のメンバーで催したが、哲学専修の学生以外にも、他学部の知り合いが一部、参加していた。哲学科哲学専修の8割の学生は不参加を決め込んだ。

 「石の上で酒が呑めるか」
 「ちゃんとした呑み屋でやるなら参加してもいいが、大隈講堂前はいやだ」
 「ばかじゃないの!?」
 
 演習授業の教授2名にも声をかけたが、すげなく断られた。

 12時間連続呑み会は、夕方の6時に始まり、翌朝の6時に終了した。お酒とつまみは参加者それぞれが持ち寄ることになっていたが、安酒に駄菓子が多かった。
 参加者のひとりはおばあちゃんだった。この人は哲学専修の必修授業の聴講生だった。4月に呑み会を開く際に作成した案内のチラシを、同期進級の学生だけに渡すのもなんだしと思って、落第している学生など、教室にいる学生全員に配ったところ、聴講生のおばあちゃんも呑み会にやって来た。
 こんな馬鹿な企画に年輩の方は参加すまいと踏んでいたが、やって来た。体力や健康面で大丈夫なのかなと少しは心配したけど、学生よりもよりも元気に呑み明かしていた。

 12時間も、呑みながら、ただ、ぐだぐだと話していただけだった。哲学科の学生だから、哲学の話をしていたと想像する向きもあろうが、そんなことはあまりない。というのも、たとえば、ハイデガーの存在論が好きな学生と、カルナップの論理実証主義が好きな学生が、本気で議論をし始めると、まじの大喧嘩になってしまうことがある。ハイデガーを研究している学生とアドルノを研究している学生が、ハイデガーのナチス協力に関して、喧嘩になりそうになったのを、間に入ってなだめたことがあるくらいだ。哲学科の学生は、研究分野が違うと、意外と、哲学の中核に関わる話はしないものなのだ。
 哲学に関する話をするとしても、つぎのようなものくらいだ。

例その1
「フッサールHusserlって、おじさんからもらったナイフを、もっと切れ味の鋭いものにしようとして、研ぎ続けたら、鋼(はがね)の部分がまったくなくなり、切れないナイフにしちゃったらしいぜ。フッサールらしいよね」

例その2
「ウィトゲンシュタインWittgensteinが頭上のカシオペア座を指差(ゆびさ)して、あのWというかたちは、ウィトゲンシュタインのことだと言い出したので、弟子のノーマン=マルコムNorman Macolmが、『あれはマルコムのMですよ』と言ったところ、ウィトゲンシュタインはいかめしい顔つきで、『いや、君はまちがっている』と本気で反論したそうだ」

 以上のような当たりさわりのない話くらいしかしない。

 12時間連続呑み会の途中、深夜を過ぎたころ、劇団木霊(こだま)の劇団員が近くを通ったので、一緒に呑みませんかと誘ったところ、数名が合流した。
 劇団木霊というのは、早稲田の演劇サークルで、大隈講堂の裏に専用のアトリエを持っている。


 一般名詞の「こだま」は「木霊」「谺」「木魂」などと書く。
 もともとは、木霊の「木」を偏(へん)に、「霊」を旁(つくり)にして、ひとつの漢字にしていたが、ウェブでは、「霊」の正字体(いわゆる旧字体)の「靈」を旁(つくり)にした「欞」しかない。サイト上では「木霊」と「欞」とを本来の造字の代わりにしている。それでも、もともとの造字に愛着があるようで、「木」と「霊」をひとつにしたロゴも使用している。
 12時間連続呑み会のときに劇団員のひとりにこんなことを話した。「欞」という漢字を知らなかったので、『大字典』という辞書で調べたところ、「欞」は「櫺」と同じ意味で、「れんじ(連子・櫺子)」のことだ書いてあった、と。その劇団員はちょっと困ったという顔をしたので、悪いことを言ってしまったかなと思ったな。
 ちなみに「れんじ」とは、木・竹などの細いものを縦または横に一定の間隔をおいて、窓や欄間(らんま)に取り付けたもののことだ。

 劇団の人の肉体って、すごいよ。下手な体育会より鍛(きた)え上げている。演劇をやっている人からすれば当たり前のことなんだが、通常の10分の1をはるかに下回る速度で動けるんだな。この呑み会のときには、頼んでやってみせてもらったけど、演劇の素人からすれば、「これはすごい」って感じだった。試しに、みんなでスローモーションで歩こうとしてみたけど、全然、駄目だった。
 夜中の2時に大隈講堂の前で10人くらいの学生(それも哲学科)が、スローモーションで歩こうとしている光景は、不気味だったんだろうな。だれかが見ていればの話だけど。


時計台の下の部分に、演説をする場所があり、その前の半円状に凹(へこ)んでいるところは、階段状になっている。そこで呑み会をやっていた。階段状になっているから、坐(すわ)りやすいよ。

 『大学図鑑』というさまざまな大学の実情・内情を紹介する書籍がある。そこに、「隈(くま)飲み」という項目がある。

隈飲み
 大隈講堂の前ではいつも早大生たちがダベっているが、その大隈講堂の前で酒盛りをすることを、「隈(くま)飲み」という。大学を眺めながら酒盛りをして、校歌を合唱するわけだが、あまり夜遅いと警備員がやってくる。なお、飲み会の掛け声は「学生注目!」。この掛け声を聞いたら、「なんだー!?」と返事をしなければならないとか。ちなみに慶応では「塾生注目!」が掛け声。

 私が学生だったときに「隈飲み」なんてことばはなかったと思うんだが。それに、哲学科の学生は、校歌は唄わない。なぜなら、校歌を憶えるほどの愛校心がなく、憶えていないものは唄えないからだ。

2009年3月6日金曜日

北里大学薬学部の入試問題は意図的に男性向きの問題を多くしているが、合格するのは過半数が女子受験生

 北里大学薬学部の入試問題は意図的に男性向きの問題を多くしているそうだ。一時期、北里大学教授であった養老孟司が述べていた。
 少しばかり以前の英語の語順整序(並び替え)問題などは、強烈なまでに理系男子向きの問題だった。HAL496は、この手の問題が得意なので、こういう大学を受験する生徒が来ないかなと思っているのだが、立地条件が悪いのと、ウェブでしか宣伝していないのとで、ちっとも来ない。
 それはともかく、男性向きの問題を多くしているのは、薬学部出身者の就職をよくするためである。
 女子学生の場合、国家試験に合格して、薬剤師としてしばらく勤務したとしても、結婚・子育てなどにより、途中でキャリアを停止することがあるが、男子学生の場合、そういうことはなく、薬剤師として勤め上げる。
 大学附属病院や大病院の薬剤室長は男性である場合が圧倒的に多い。その薬剤室長が北里大学出身であれば、公平に採用しようとしても、いくぶん、北里大学出身者を多く採用することに、結果的には、なってしまうことが多い。
 このあたりのことを考慮して、北里大学薬学部は、男性が多く入学するようにと、男性向きの問題を多くしているそうだ。
 ところが、東京大学などのすごい難関大学出身の教員が智慧(ちえ)を絞(しぼ)って、男子受験生が合格しやすいようにと工夫しても、どうしても、女子受験生の合格者が過半数を超えてしまうので、ちょっと困っているらしい。
 そんなに困るというのであれば、東京薬科大学のように、男子100名・女子100名というように、男女別の定員を設ければよさそうなものだが、そこまでするのは、入試の公平性に悖(もと)ると感じて、男女別定員は導入していないようだ。
 女性の場合、たとえば工学系に進学すると、今でも性別による不利な部分は否(いな)めない。だから、東京大学工学部にしても、早稲田大学理工学部にしても、女子学生は6%から8%くらいしかいない。これはそういった方面に女性が向いていないのではなく、女性が活躍しにくいシステムの問題なんだろうな。理学系や工学系でも相当に活躍する潜在力を備えた優秀な女性が薬学部に流れる。
 一方、薬学部を志望する男子受験生はというと、これまでの多くはない指導経験からすると、数理的感覚よりも、暗記力が優れているという理由で薬学部を目指す男子受験生が少なくなかった。
 だから、どんなに工夫しても、女子受験生の合格者が過半数を超えてしまうのだろう。

2009年3月5日木曜日

『星の王子さま』の新訳で、対訳プリントを作成していたら……

 『星の王子さま』Le Petit Princeの新訳が2005年6月以降につぎからつぎへと出版された。2005年1月に翻訳出版権が消失したからである。
 そのときに、フランス語と英訳と邦訳とを並べた対訳プリントを作成しようとした。
 英訳の定番といえるのはキャサリン=ウッズKatharine Woodsによるもので、これを読んで育った英語圏の人は多いのだが、女性によく見られる訳し方、つまり、フランス語の構文や言い回しは気にしないで、「こういうのは英語でなら(あるいは「私なら」)、こんなふうに言うのが普通よね」という訳が多く、翻訳としては結構なことだが、学習用プリントには適さないので、講談社インターナショナルから株式会社のKodansha English Libraryから出版されているRichard Howardによる英訳を採用した。
 つぎに日本語の訳だが、小島俊明(東京家政大学名誉教授)や三野博司(奈良女子大学教授・京都大学卒業)の訳文が、個人的に好きなんだけど、学習用の訳文としては、ある作家による少しごつごつした感じの直訳に近いものを選んだ。
 レオン=ウォルトLéon Werthという人物に向けての献辞のところが、つぎのようになっていた。邦訳の前に、フランス語を載せよう。

Elle a bien besoin d'être consolée.

 レオン=ウェルトは男性なのに、主語が英語のshe/itに相当するelleになっているのは、原文では、cette grande personne(その大人)を受けいるからだ。personneは女性名詞なので、elleで受ける。大人の男性を指すときでも女性名詞を使うというのは、奇妙な感じがするかもしれないが、そういう言語なんだとしか言いようがないな。
 英語に訳すとどうなるかと、自動翻訳機にかけてみた。

Google翻訳
She really needs to be consoled

Excite翻訳
She/It needs a lot to be conforted.

 ちなみに、本格派の怒涛の直訳をすると、こうなる。直訳だとSheとなるところだが、さすがにこれはHeにした(「本格派の怒涛の直訳」じゃないじゃん)。

He really has the need to be consoled.
彼は慰められる必要性を大いに持っている。
→彼は慰めを大いに必要としている。

 ところが、くだんのある作家の邦訳では、つぎのようになっていた。

慰めを必要としているから。

 「から」をつけたのは、この人の文体だとして、bienに対応する語句がない。この人の翻訳は、そういう方針なのかと思ったが、ほかの部分は、すでに述べたように、ごつごつした感じの直訳っぽい訳文なのだ。それなのに、どうして、ここだけが、大胆な意訳となっているのであろうか? 英訳では、ほかの部分はだいたい、フランス語の原文に対応するように訳してあって、この箇所の英文だけが、bienに対応する部分がない。偶然の一致なんだろう。

 つぎに、既存の英訳を2種、掲(かか)げる。

Kathrine Woodsの英訳
He needs cheering up.
直訳:彼は励ますことを必要としている。
彼は励ます必要がある。

Richard Howardの英訳
He needs to be comforted.
直訳:彼は慰められることを必要としている。
彼は慰める必要がある。

 いずれも、bienに相当する語句がない。英語でbienに相当する語句reallya lotをつけると、大袈裟(おおげさ)すぎて英語らしくないと感じたのではないかと思われる。

 また、ほかの邦訳を原文とともに並べてみる。

Ella bien besoin d'être consolée.

小島俊明(東京家政大学名誉教授)の訳
慰めてあげなければならない人なのです。

 「あげる」を使って、さらりとbienの意味合いを残している。

三野博司(奈良女子大学教授・京都大学卒業)の訳
彼にはどうしても慰めが必要なんだ。

 「どうしても」という語句とともに、「……なんだ」という言い方で、bienの「感じ」を強く出している。

 アントワーヌ=ド=サン‐テグジュペリAntoine de Saint-Exujupéryは、bienを入れることで、レオン=ウェルトへの心遣(こころづか)いを強く出しているのだから、多少、日本語らしくなくても、意味合いを残したほうがよいと思うのだけど。単なる個人的な感想なんだけどね。

2009年3月4日水曜日

早稲田の男子学生が早稲女(わせじょ)とつきあうことが少なく、東京大学の男子学生が東京大学の女子学生と、つきあうのが少ないのはなぜか?

 同じ大学の女性学生とは、つきあわない男子学生は多いようだ。
 むろん、女子学生の絶対数が少ないからということもあるだろうが、それだけではないようだ。
 早稲田にしろ、東京大学にしろ、同じ大学の女子学生が入れないテニスサークルは多い。これって、一見すると、変だと思うのだけど、それなりに理由があるようだ。
 東京大学や早稲田くらいになると、早稲田や東京大学と較べるとレベルは高くはない大学の女子学生が、サークルにむやみに入ってくる。となれば、他大学の女子学生と較べて、生意気な同じ大学の女子学生を入れたくないという駄目男子学生の気持ちもわからなくはない。
 しかし、理由はそれだけではない。
 男性というものは、女性に対して威張りたがる傾向の持ち主が少なくない。
 ところが、同じ大学の女子学生はというと、平均をとれば、男子学生よりも優秀な学生が多い。
 まず、女子学生の場合、1浪すると、就職が極端に悪くなる。だから、基本的に、現役で合格できたところに入学する。浪人してまで希望大学に進学するのは、就職の点で不利になるのだ。1浪すると女子学生の就職が極端に悪くなるのは、女性社員は結婚したら退社するので(いわゆる寿退社(ことぶきたいしゃ)というやつ)、23歳で入社する女性社員は、22歳で入社する女性社員よりも平均在籍年数が1年少なくなる。さらに、年齢給も高くなる。そういうことから、女性の場合、1浪すると極端に就職が悪くなる。一方、男子学生の場合、1浪どころか、2浪、企業によっては3浪でも問題はない。つまり、現役合格率(あるいは現役入学率)が男子学生よりも高い分、女子学生は優秀なのである。
 つぎに、女性の体力は平均すると男性の3分の2である。人間工学では、そういう数値を出している。ということは、同じ期間、勉強した場合、男性は女性の1.5倍勉強できるのである。それなのに、同じ大学ということは、女子学生のほうが圧倒的に優秀だということになる。同じ大学の同じ学部ということは、こうした点で、女性のほうが優秀だということになる。
 どうやら、男子学生は、以上のことを、本能的にというか、なんとなくというか、感じ取っているらしい。だから、同じ大学の女子学生は入れないが、他大学の女子学生は入れるというサークルが存在するのだ。もちろん、この点に関して、たとえば、早稲田のサークルに東京大学や一橋大学や東京工業大学や御茶ノ水大学や慶應義塾大学の女子学生が入ろうとしたらどうするのかという問題があると思うかもしれないが、安心したまえ、自分が所属する大学よりも格下の大学のサークルに女子学生は絶対に行かないから(確証はないが)。
 学生時代に、以上のことを考えついて、早稲田の女子学生たちに話したことがあるんだけど、そうしたら、「掃除機くんは、ものごとを的確に洞察しているわ」「そのとおりよ」「やっぱり、掃除機くんって、頭、いいわ」と大絶賛され、それ以前よりも、好感度が急激にアップした(ような気がする)。そんなことを狙っていたわけではなかったのだが。

2009年3月3日火曜日

四者択一なら、以前は、3番の正解率がいちばん高かったが、最近のセンター試験の科目によっては2番の正解率が高い場合が増えてきたが、これも学力低下のあらわれであろうか?

 一般に言われていることであるが、四者択一(四択)の場合、正解率の高い順は、3番・4番・2番・1番であるとされている。最近でも、どこかの新聞の記事で、四択なら3番が正解である確率が最も高いと述べている人がいた。

 ところが、センター試験の科目によっては、2番が正解であった場合がいちばん多いということが増えてきた。

 3番が正解である確率が高い理由はこうだ。
 「絶妙なひっかけ」がある場合、それを1番ないし2番におき、正解を3番ないし4番におく。すると、学力が充分でない受験生や、そそっかしい受験生は、「ひっかけ」としておかれた1番ないし2番の選択肢を、最後までよく読まずに選ぶということをしてしまう。
 逆に、この問題は難しいという場合に、1番ないしは2番に正解をおくことで、正解率が極端に低くならないように配慮することもある。中堅大学あたりでは、この大学を受験するレベルの受験生に、この問題は難しすぎるだろうという場合には、1番が正解であることが多い。

 2番が正解であるものが多くなっているというのは、それだけ、受験生の学力が低下していることの反映であるようだ。
 従来のひっかけ方で選択肢を作成すると、平均点が6割を大きく下回ってしまうから、教科書レベルが理解できていれば6割くらい得点できるというセンター試験の趣旨に反してしまう。
 逆に、問題内容のレベルを落として、設問の作成方法を変えないままだと、平均点が6割くらいというのは確保できても、問題そのもののレベルが低くなりすぎてしまい、場合によっては、「これは大学受験の問題か!?」と批判を招きかねない。
 以上の理由から、問題のレベルを下げずに、選択肢の並べ方を工夫することで平均点を維持しようとしているのではないかと思われる。

2009年3月2日月曜日

早稲田と慶應義塾は、他大学と較べてイギリス英語の長文の出題が多かったのだが、アメリカ英語が増えているのは、ある意味、学力低下の反映であろうか?

 5年くらい前までは、早稲田大学政治経済学部にしろ、法学部にしろ、慶應義塾大学文学部にしろ、あからさまに、イギリス英語の長文を出題していた。
 政治経済学部では、3つの大問の長文が、ベタベタのイギリス英語で書かれたものだったりした。慶應義塾大学文学部の英語の長文も、イギリス英語の分野が研究対象の教員と、アメリカ英語の分野が研究対象の教員との比率が2:1くらいであるのに、出題される長文はイギリス英語が多かった。
 理由は、はっきりとはしていない。考えられる可能性は、つぎのとおり。

1)イギリス英語だということを見きわめて、イギリス英語の長文読解に励みなさいというメッセージだった。

2)早稲田の英文学専修にしろ、慶應義塾の文学部英米文学専攻にしろ、もともとイギリス文学を中心に扱うところだったから、アメリカ英語の嫌いな教員が多い。

3)近年の日本の高校ではアメリカ英語を中心に学ぶようなので、その中で、比較的簡単に力量さが得点に反映するように、イギリス英語の長文を出題していた。

 いずれにしても、意識的にイギリス英語を中心に据(す)えて、長文の読み込みをしたほうが得するようにできていた。イギリス英語でよく使われる特徴的な単語はあるんだし。
 私立大学受験を中心に据(す)えた予備校の講師が「この単語は早稲田英語ではよく出てきます」と頻繁に指摘するという話を耳にしたが、指摘した単語は、どれもこれも、イギリス英語に特徴的な単語であった。イギリス英語とアメリカ英語が区別できないらしいから、「早稲田英語でよく出てきます」と言っていたのであろう。
 ずいぶんと以前のことだが、早稲田大学第一志望の生徒の通う高校の英語教員が、ことごとくアメリカが大好きで、短期のものも含めて、全員の留学先もアメリカという場合に、プリントが配られると、すべてアメリカ英語であって、上智・青山は合格しやすくても、早稲田や慶應義塾の対策としては、いくぶん不利に作用するという場合もあった。
 ちなみに上智大学はベタベタのアメリカ英語だが、hilarious(滑稽(こっけい)な)とか、LOLという省略語のもとの英語のlaugh out loudとか、YouTubeや英語の掲示板で目にするような語彙・表現が多すぎて、アカデミックな感じが全然しないように思うのだが。

 イギリス英語で書かれた長文が出題される割合が早慶では高かったのであるが、2008年度の早稲田大学法学部の英語の長文はアメリカ英語だったし、2008年度・2009年度の慶應義塾大学文学部の長文もアメリカ英語だった。2009年度の早稲田大学政治経済学部の3つの長文のうち、2つはアメリカ英語で、イギリス英語の長文は1つだけだった。
 短期間でずいぶんと変わったものだな。

 こんなふうに傾向を変えてきたのは、イギリス英語だと、平均点が低くなりすぎたからなのではないか、という可能性を検討しているが、検証しようがない。
 いずれにしろ、アメリカ英語の出題が多くなってきているので、以前ならば、意識的にイギリス英語の長文読解をしたほうがよかったけれども、あまり気にしないで、適当に勉強するだけでよくなったと言えなくもない。

 これは朗報だろうか?

2009年3月1日日曜日

「私」は「今」「ここ」にいる。

 ドイツ系の哲学をやっている人の中には、冗談でこんなことを言う人がいた。

真理(しんり)、真理と騒ぐが、真理なら、簡単に手に入る。
「私は、今、ここにいる」
ほら、いつ、どこで、だれが言っても、この文は正しいではないか?

 「私は今、ここにいる」という命題[=文]は、いつ、どこで、だれが述べたとしても、真なる命題である。が、しかし、だれも、この命題を、普遍的真理とは看做(みな)さない(真理とは本来、普遍的なものなので、「普遍的真理」はくどい表現だが)。
 なぜか?
 ここという語は、一般名詞でもなければ固有名[=固有名詞]でもないからである。
 では、ここという語はどういった類(たぐ)いの語であるのか?
 こうしたものを「函数的名辞」と名づける場合がある。「函数」は「関数」functionの古い表記で、名辞は名詞のことだ。数学で用いる f(x) f の部分に相当するのが、ここという語であり、(x) は状況・文脈などに相当する。
 かりに、「私は今、ここにいる」と紙に書いたとする。のちに、だれかが、その紙を見つけ、「私は今、ここにいる」という文言(もんごん)を目にしたとしても、「」がだれのことであるか、「」がいつのことであるか、「ここ」とはどこであるか、まるでわからないであろう。ここという語が、函数的名辞であるからだ。
 たとえば、「12という整数が固有名であるとするならば、「素数や「虚数などの語あるいはカテゴリーは、一般名詞に相当する。そして、ここという語は函数(関数)に相当する。

 かりに、つぎのようなことを述べる者がいるとしよう。

「私」という意識の所在は、常に同時に、「今、ここ」という時間的・空間的位相の呪縛(じゅばく)の中で、あがいているにすぎない。

 今、即興で適当なことを書いてみたが、ここには、深遠なものはなにもない。「」という存在が「今、ここ」にいる状態から逃れられないと把(とら)えるのは、根本から誤っている。が常にここにいるのは、ここという語が函数的名辞(かんすうてきめいじ)にすぎないからである。ここが固有名であるならば、「逃れられない」という表現には意味はなくもないが、固有名に対してのみ意味をもつ「逃れられない」という表現を函数的名辞に対して言うのであれば、たんなる「ことばの誤用」にすぎない。上記の例文には、ただ、ここという語の理解の不充分さだけが存在しているといえよう。

 似たようなことは、倫理学でもあるようだ。数学での「解なし」に相当する問題を設定して、「世の中には容易には答えの出ない問題がある」で1年を締(し)め括(くく)るゼミナールや講義が倫理学にあるとして、それは、倫理学上の難問を扱っているのではなく、問題設定が誤っているにすぎない。

 解なし、解が1つ、解が2つ、虚数解があるなどのことによって、解なしの問題を指して「この問題はあの問題よりも深遠である」とは数学ではだれも言わない。

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和歌山県橋本市出身。世界文化遺産である高野山の麓です。
和歌山県立橋本高等学校を経て、早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業。
B型Rh+。天秤座。家紋は「丸に九枚笹」。
大叔父(おおおじ)は精鋭集団である帝国陸軍航空審査部所属で、「キ61(きろくいち)の神様」と呼ばれた坂井雅夫少尉。キ61は三式戦闘機「飛燕(ひえん)」のことである。

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